わがまま科学者

米国ボストン在住の神経科学研究者のブログです。科学、教育などに関する雑多な私見、主張。1ヶ月に1度程度の更新予定。Twitter:@yamagatm3   研究者情報:https://about.me/masahito.yamagata/

タグ:研究問題

2014年もまもなく終わろうとしています。2014年の科学を振り返るということで、ネイチャー誌がそういう特集記事を出しています。
http://www.nature.com/news/365-days-2014-in-science-1.16573

やはりCDBの件が、入ってしまいました。高橋政代さんの臨床も含めてですが。。今年の3月に「理研CDBを守れ」というブログを書きましたが、いろいろあったものの、CDBという英語名は守られたようでよかったと思います。ただ、3月時点で書いていたメンタルケアが考慮されなかった結果については、とても残念に思います。

なぜ、あの問題が日本の2014年度10大ニュースに列挙されるような時事問題になってしまったのか?そして、なぜ、問題の後始末に、窮地に陥っている何人もの若手研究者を助けることができるような金額である2x1400万円もの費用を要したのか?多くの科学者が不思議に感じていると思います。

さて、あの問題で忘れられない言葉に、竹市さんのこの言葉があります。
「どういう状況にあろうと、研究者はきちっと成果を出すのが大事だ」
http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201406/0007091283.shtml

これは、スポーツの根性論とか、そういう精神論につながるものですし、研究費やポストを確保するために、結果を出すというのは大切でしょう。それはそうです。研究者だったら、これ以外の方法はないはずです。

しかし、結果を出しても、台無しにしてしまうような仕組みが、この世の中には多すぎる。結局、こういうのが、再生医療とか、そういう分野だけでなく、脳科学も含めて、日本の科学技術研究のあらゆるところで、問題になっている。

これらを考えてみると、その根源には共通した問題があることに気づくわけです。今回は、4つの提言を通じて、これらの問題をわがままに指摘してみたいと思います。


1)科学以外の要素を使って科学研究を競争させるな
神経科学者である下條信輔さんが、朝日新聞のWebronzaにコラムを執筆されています。その中で、理研BSIについての「暴露」みたいなものがあって、楽しく拝見させていただきました。特に印象に残った言葉として、「競争はあくまで科学のルール、研究そのものの価値評価に則った競争でなければならない。」というのがありました。

大変貌を遂げてきた日本の科学の「間違い」下條信輔
http://webronza.asahi.com/science/articles/2014122000006.html

これは、昨今の科学研究のあり方を考える上で、非常に重要な議論であると思います。STAP問題が、再生医療をめぐる研究費獲得競争と関わっていたというのは、メディアの報道でも見られたし、理研の「研究不正再発防止のための改革委員会」による提言でもこのような趣旨の分析があったと思います。今から10-15年くらい前、iPS細胞が世の中にでる前には、理研CDBも笹井さんも、再生医療関係のかなりの予算を持っていた。そして予算の分配権限を持っていたから、権力行使もできたわけです。ところが、2005年以降、山中伸弥さんらによるiPS細胞の出現によって、CDBや笹井さんの予算が激減したというのは事実であると思います。これは、予算というだけでなく、権力の縮小も意味していたわけです。

こうした中で、研究費、権力獲得競争に勝つ「決定打」として、iPSを上回るもの、割烹着、リケジョ作戦を使ったのではないでしょうか。一方では、再生医療関係の成果を出せ、結果を出せ、という文科省や財務省、更には社会の要請、あるいは外部や内部の研究者のプレッシャーもある。その結果、「手抜き」をして、ルールを守らなくても、とにかく結果を出したように見せかけることを優先する。そういう背景もあったのではないか、と思うのです。早く結果を出せとか、大きな成果を出せ、というようなプレッシャーがありすぎると、やはり仕事が丁寧でなくなるというのは、常です。これも、計画することが困難な科学研究の性格とは無関係に、科学研究を競わせている結果生じたわけです。

そもそも、科学研究に、科学の価値以外のものを大きく持ち込んだのは、米国学術界の商業主義みたいなものに原因があると思います。米国の科学で根本的におかしいと思うのは、プレゼンテーション能力とか、そういう売り込むような能力を科学者の能力として過剰に評価している。声が大きい科学者の研究ほど、その研究の評価が高くなる。プレゼンテーションのうまい科学者のセミナーは確かに心地はよいですが、私は、科学者のプレゼンテーション能力の評価などというのは、ある種のレイシズムだと思うのですが。。これは、アファーマティブ・アクションなどにも関係している議論です。いずれにしても、こういう研究そのものの価値とは違うものを過剰に評価してしまい、競争させるというのは、科学研究を歪める原因になっていると思います。

一方で、竹市さんの言葉を借りれば、「自然科学的に興味深いと評価」しただけだという言い訳もある。http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201406/0007091283.shtml しかし、科学研究、特に再生医療みたいな分野では、自然科学的に興味深いという評価だけでは、逆に危険です。これは、核分裂が自然科学的に興味深いと言っていて、原子爆弾の製造を考えていないのと同じような論理です。私は、ここに、マネージメントのセンスの悪さを感じる。こういうのは、無作為の行為と認識されなくてはならない。つまり、その結果を意識して、介入することで、積極的にマネージメントする必要があるのです。誰かが科学以外の道具を使って科学研究の評価を捻じ曲げようとしないように意識する必要がある研究内容というのは存在するものだと思います。


2)運営における不誠実なヤラセ行為を止めよ
私は、STAP問題にあった背景の本質の1つは、「人事」であったと思っています。ところが、メディアなどでは、これを真正面から取り上げた記事を見たことがありません。1つは、小保方氏をCDBのユニットリーダーに採用した「出来レース」。これは、理研CDBの関係者は「出来レースではない」と言い張るが、本当でしょうか。幹細胞の分野のPIを募集するという「公募」の英文を書いたのは、一体誰だったのでしょうか?この出来レースを演出したことが疑わしい西川伸一さん(元CDB副センター長)は、都合が悪くなりそうになると逃げてばかりいるが、その経緯を詳細に説明するべきだと私は思います(私は、出来レースでなく、あの時点では責任を持って明確なリクルートを行うべきだったという立場です。そして出来レースだったから、無責任体制が生まれた。)。最近も、京大関係者である柳田充弘さん、佐々真一さんが、同じように、採用の経緯についての説明が必要だという考えを表明されていました(私のTwitterのRT参考@yamagatm3)。

もう1つは、理研CDBの次期センター長人事についても、理研の理事会に諮ろうとした、あるいは数回諮ったとされる(?)候補者は、一体、誰だったのか?(この記述を参考:http://scienceinjapan.org/topics/20140620b.html)笹井さんではなかったのか?この点は、川合理事あたりを中心に理研の上層部が隠蔽しているのでしょう。更には、その先は、文科省などの官僚の昇任人事や新設される日本医療研究開発機構AMEDの人事までつながっていることはなかったのか?これも、日本の学術界周辺に広く見られる「ヤラセ」体質が根源にあると見てよいのではないでしょうか?

こういうヤラセは、いろいろなところで見られる。例えば、演出効果が最大になる何月何日に突然発表するというサプライズ。STAP問題で言えば、笹井さんを次期CDBセンター長にするため、あの時期に発表し、それを使って、研究所の予算を獲得する。更に特定国立研究開発法人化をスムースにして、再生医療、国家戦略特区、男女共同参画など、アベノミクスの矢として、政府の施策のロールモデルに仕立てあげようとするタイミングもヤラセっぽいです。ここには、次の項目で議論する「官僚」が関係しています。

こういう「ヤラセ」が横行するのは、現代の科学研究体制の運営での病理であると思います。大衆をたぶらかすという誠実さのない行為が行われ、大抵の場合、その目的は、偉い人達が権力をほしいがままにし、利益を得るためでしかないと思います。そして、そのヤラセのストーリーを作るために、いろいろなストーリーが科学を含めて作られてしまうのです。STAPでのヤラセの大失敗は、ひたすらもみ消し。私は、政策に「ヤラセ」がなぜ必要なのか、よくわかりません。


3)科学者が、官僚をコントロールせよ
文部科学省関係の官僚であり、裏でこそこそと動いてきた菱山豊さん、板倉康洋さん、堀内義規さんあたりは、一連の報道でも全くといってお名前を拝見したことがありません。あるいは、理研も、出向官僚とか、公的組織なのに何故か世襲みたいな大河内眞さん(理研は昔の特定郵便局と同じなのか)とか、おられると思います。こういう官僚の方々というのは、普段は裏権力を使って、建築や研究などの予算をコントロールしているのに、問題が起こると、裏であることを良いことに、何も説明責任を果たさず、保身を考えているのでしょう。マスコミも、一般人である研究者のパパラッチなどやらず、こういう人達をよく観察し、「黒幕」として突撃した方がよいのではと思います。あるいは、マスコミそのものが、こういう官僚によってコントロールされているのかもしれませんが。

笹井さんの作戦も、結局は、官僚の機嫌をとって、一緒になって、予算を獲得しようとした。そういう経緯があったのでしょう。昔は、結構、官僚をコントロールできる科学研究者もいたのですが、最近は、予算という武器を持った官僚の機嫌を伺い、媚びを売るような研究者ばかりになってしまったのではないか、という現状があるのではと思います。

例えば、竹市さんの先生である岡田節人さんあたりだったら、事あるごとに官僚を叱り飛ばしたのではないか、と想像します。官僚のために科学者が動くのではなく、科学者が公僕である官僚を動かすのです。こういう関係が研究者と官僚の間にできれば、リーダーシップを取る研究者が、「科学」について不見識な言動を繰り返す下村文部科学大臣を教育するために文部科学省に乗り込むということも可能だったでしょう。逆に、文科大臣に、叱られて帰ってくるようでは話になりません。

私は、科学者が官僚より上に立って、真に科学的なメリットから、予算などの配分を決めるような仕組みを構築する必要があるのではないか?と思います。米国の官僚などは、公僕たる官僚の姿に近いと思います。もちろん、こういうことができるリーダー的科学者は、自らを律することができる研究者でなければならないことは論を待ちませんが。

これと関係して、CDB前センター長のメディアへの対応の仕方でも、言動を取捨選択、改変される可能性の高い「インタヴュー」ではなく、長文の寄稿などの形で対応した方が効果的だったのではないか、と思います。また、リーダー研究者は、ソーシャルメディア等を普段から使いこなし、危険性などに熟知するなど、慣れておく必要があると思います。そして、常々、こういう仕組みの問題を暴露していけば、科学者による科学研究政策の推進がやりやすくなるのではないか、と考えます。



4)科学者も人間であり、心理や感情の考慮が必要である
今年2014年の1月から始まったSTAP論文騒動ですが、12月19日に、その再現実験や検証実験が終わるという発表がありました。また26日には、ES細胞の混入だという報告も、遺伝研所長の桂勲さんを委員長とする委員会から報告がありました。やはり、大きく報道されていたようです。私は、むしろ、大きく報道させるように、仕向けたということがあったのではないか、とさえ思っています。そして、マスコミやら、あまり研究経験のないサイエンス・ライターみたいな人がいろいろコメントをする。それぞれ、もっともらしいことを言っているとは思うのですが、しかし、本質を突いているようには思えない。

私は、この時事問題というのは、もう少し「心理学」的に分析されるべきではないか、と感じています。もちろん、政治とか、研究費を含めての科学技術行政、 教育。。様々な要素があることは事実ですが、これまでのマスコミや研究者を含めての分析など見ていて、一番、欠けている視点ではないか、と。。

これも単純には書けないことですが、例えば、光るものを見て、本当に信じてしまった。それが人間関係等も含めた環境の中で思い込みが強まっていく。その中で「ごまかし」が始まる。あるいは「でたらめ」になる。そういうあの方の心の中の過程を含めて、政治に利用しようとした周りの人についても、どういう心理状態があったのか。笹井さんも丹羽さんもなぜ信じてしまったのか。笹井さんの報道対応の中ででてきた「細胞のサイズが違う」「実験をやったことのない人の机上の考えだ」なんていうのは一体なんだったのか?共同研究者の心理、あるいは、マスコミ の心理、大衆の心理など。。こういう感じの分析でしょうか。

場合によっては、「自由意志」に基づかないことだったかもしれない。うつ病で試料管理ができないとか、夢遊病者が殺人を犯してしまうような。場合によっては、精神鑑定なども必要なのではないか、と思います。そういう話は一度もでてこなかったのでしょうか?その過程では、法的には何の意味もない嘘発見器やfMRIなどの利用も参考程度にはなるかもしれません。この自由意志の問題というのは、実は大学院などでの教育問題にも関わっていると思います。教育では教えたりして育成することも大切ですが、職業選択上の不適性ならば早期に気づいてなんらかの措置を取るべきです。

ですから、周りの人が感じていたという「事実」を知ることは、大切だと、私は思います。これが真に「科学的」な態度です。竹市さんがCDB内部の調査報告書の中で「信頼性がないと判断して」削除してしまったと言われる内容ですが。。誰かが感じていたことという事実を記述するのが、科学的な態度であり、感じていたという印象は不確かだから記録に残さないというのは、科学的な態度だとは、私は思いません。実は、この不確かさ、曖昧であるという事実に、真実が隠されているのかもしれません。

こういうのは、ある意味で歴史研究や文学の世界かもしれませんね。科学的にいろいろ分析しても、やはり「自白」がない限り、本当のことは、最後までわからないと思います。。 こういうことがしっかり分析できるようになれば、「自死」などの背景理解や防止にも役立つことと思います。そして、実は、こういう科学研究者の心理や感情についての考慮が、男女共同参画を含めた日本の科学技術行政に根本的に欠損している視点であると思うのです。日本の科学技術行政には「愛がない」。私が、別のところで主張し続けてきたことです。

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次回のブログの更新は、2015年2月を予定しています。

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「私が研究を評価するときの一番の目安は、驚きです。もう一つは腑に落ちること。この2つが、学術研究で大事だと思います。」野依良治

科学研究では、「驚き」を評価することが多い。意外であった。びっくりした。ということです。例えば、体細胞にたった4種類の遺伝子を導入することにより達成された山中伸弥さんらのiPS細胞作製は、「驚き」でした。

ところが、分野が成熟すると、人々が少々のことでは「驚かなくなる」という状態になってきます。要するに、頭で考えて、結果が予想できてしまう。そういうことが増えてくるのです。予想できるようなことでは、人々は驚きません。ですから、そういうことは「評価」が低くなる。その結果、驚かすためには、人をアッと言わせる研究、とんでもないというような研究が必要になってくる。そしてそういう研究がハイプロファイルジャーナルに掲載されるわけです。

幹細胞の研究分野というのは、研究によって、人々を驚かす基準が非常に上がってきている。少々のことでは、人々を驚かすような研究ができない。つまり、幹細胞の研究分野が、多くの研究者が参加するようになり、成熟したことによって、インパクトのある研究、過剰な驚きを求めるような研究が、分野として要求されているのではないか、ということです。

つまり、こういう分野は、理論的に予想できることが多くなってきているわけです。理論的に予想できるということは、既に何らかの法則性、規則性が見つかっており、それを元に結果が予想できるということであります。こういう科学分野というのは、研究分野として成熟して、ある意味で「終わりつつある」のではないか。もちろん、細かい面白いことは沢山あるでしょう。最近もSTAP細胞の論文発表の問題が日本国内では大きく騒がれているようですが、これも、この過剰な驚きを要求されるような分野になってきた幹細胞研究の分野の「終末」のような状態ででてきてしまったものではないか、とふと思ったのです。

つまり、幹細胞研究はもう終末になりつつあるのではないか。個人的には、1992年のことになりますが、Cold Spring Harborで毎年開かれるQuantitative Biologyのシンポジウム「The Cell Surface」で、免疫学での重要な研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進さんが、免疫学が終わったとして、神経科学に移ったという宣言から発表を始められたのが、思い起こされます。この「免疫学が終わった」という感覚に近いものがあるのではないか。

私自身が、幹細胞分野に直接関わっていないので、この「終末」という表現は、幹細胞研究分野の方々には失礼な言い回しかもしれません。もちろん、臨床応用など、医学研究として大切な研究は多く残されていると思います。最近、ニュースなどで報道される幹細胞研究の内容などを見ていましても、その大部分は、臨床応用に関係したものであり、いわゆる基礎研究に相当するようなものは、ほとんど見かけなくなってきています。大学では、主に創造的な基礎研究に相当する部分を重視して研究することが多いのですが、その意味で、幹細胞研究のかなりの部分は、もう民間企業などに移すといった時代になってきているのではないでしょうか。

米国のトレンドとしては、幹細胞研究施設で神経系の研究をしている研究者が、次々とBRAINイニシアティブとの関連を思わせるような領域に移り始めています。これも、幹細胞分野が「終末」に近づいていることを意味しているのかもしれません。幹細胞研究者であるKnopfler博士も、こんなブログを投稿しています。
Multi-Billion Dollar NIH Brain Initiative A Stroke of Genius or Madness?

ルネサンス文化の終末期、絵画では、いわゆるマニエリスムという作風が生まれました。ルネサンス音楽では、私が大好きなカルロ・ジェズアルドが、不協和音や半音階を使ったマニエリスムの音楽を作曲しました。奇異や驚嘆を求める心によって、変わった表現が用いられたということです。今、幹細胞分野の基礎研究というのは、こういう時代になっているのではないか。科学研究を、こんな文化的な見方で、最近の科学の動向や話題など考えてみるのも、また一興かもしれません。

日本国内では、研究者リクルートに関して、コネを利用した人事や、偽装公募、出来レースなど、不透明で不誠実な行為が広く行われています。4月16日の理研CDB副センター長である笹井芳樹氏の記者会見の後、CDBにおける人事の疑問点について、Twitterの方で指摘させていただきました(https://twitter.com/yamagatm3の4/16のツイート参考)。

日本の大学や研究機関における研究者人事において、このような奇妙なことは日常茶飯事であると私は思います。一般論として、なぜ、こうした人をだましたり、隠しごとをするといった不誠実な手法が、研究者リクルートといった組織の運営において行われなければならないのか。なぜ、透明性、公開性のあるリクルートを広く行うことができないのか。これは、日本の学術界、大学や研究所の運営における大きな構造的な問題であると思います。理研CDBにおける問題は、組織におけるガバナンスにも関わっていることから、「科学研究」的な事項とは全く別のこととして、今後、解明、詳細が報告されるべきことであると私は思います。

また、理研BSIのチームリーダーであったThomas Knopfel氏(現、Imperial College London)が、Science誌ウェッブサイトのコメント欄において、理研BSIでの経験を記述していました。その内容は以下です(その後、削除されたようで、現在はScienceのウェッブサイトには残っていません。以下は、4月10日に記録したWeb魚拓のものです。)
http://megalodon.jp/2014-0410-0655-07/comments.sciencemag.org/content/10.1126/science.343.6177.1299

ジャパンタイムズにもKnopfel氏のインタヴューの内容が掲載されています(後半の部分です)。
http://www.japantimes.co.jp/news/2014/04/20/national/stapgate-shows-japan-must-get-back-to-basics-in-science/

テレビインタヴュー:ドイツ人教授「理研は“STAP”以前も改ざんあった」(04/17)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000025285.html

理研は、Knopfel氏の理研BSIにおけるこのような体験についても、その真偽に関わらず、調査し報告するべきであると、私は思います。指摘されることに対して、調査も報告もないというのは、まさに握りつぶしであると判断されることです。

そこで、こういったケースにおいて、どのような調査を行い、報告するか、というのが重要になってきます。ここでは、海外の一流研究機関が、内部の問題にどのような調査を行い、どのような報告書を作製するか、という1つの例を紹介したいと思います。2006年になりますが、理研BSIの現センター長である利根川進氏(MIT)が関わった日本ではあまり報道されなかったのに世界的には広く報道された問題です。この問題について、MITが作製した報告書を一番下にダウンロードできるようにしておきます。組織の中で起きた運営上の問題について、どのように報告するか。利益相反関係などの扱いに注目していただきたいと思います。

「2006年:MIT内の他研究所の教官公募に際して、研究内容が競合しているという理由により、女性研究者に辞退を迫るメールを出したことが問題視され告発された。MITの内部調査は、不適切な内容を認めつつも女性差別の証拠はなかったと報告している。2006年を最後に、ピカウア学習・記憶研究センター所長の職を辞している。」(ウィキペディアより引用)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E6%A0%B9%E5%B7%9D%E9%80%B2

問題の概要と報告書について伝えるネイチャー(ボストン)のブログ
Scathing report about MIT neuroscience released today
http://blogs.nature.com/boston/2006/11/02/scathing-report-about-mit-neuroscience-released-today

これが、MIT内部調査の報告書です。
MITにおける女性研究者リクルート問題の報告書(Pdfファイル)

STAP問題の社会、経済、政治を巻き込んでの、混乱。これが問題であるというのは、間違いありません。「研究者倫理の問題」と「STAP現象が本当にあるのかという科学的関心」という2点が本質的に重要な問題です。更に、これらについての理研の対応、理研の広報を始めとするコンプライアンスとガバナンスの問題、ジャーナルを通じた科学研究発表のあり方、科学者コミュニティのあり方、そしてそれに過剰に反応する社会など、様々な問題が噴出してしまったという感があります。

ただ、米国からですと、日本の状況は、ほとんど目にすることもないので、幹細胞の研究者など、一部の研究者以外には、そんなに大騒ぎするような問題ではないと思います。これで、例えば、「日本の科学技術の信頼が問われている」とか、「大学院教育が信用されなくなっている」とか、そんなことはないでしょう。日本の過去の研究は、このような1つの問題で、すべてがなくなってしまう、なんていう浅い評価を受けているものではないです。私が、米国から日本の状況を見ていて感じるのは、この問題のかなりの部分は、論文の書き方や広報のあり方を含めた「過剰宣伝」にあったのではないか、ということです。

研究者倫理の問題の究明には、やはりメンタルケアも考慮した人権問題というのも大切です。STAP現象が本当にあるのかという科学的検証に関しては、細胞や動物の増殖速度、解析スピードというのが、政治家の決断のように即断できるスケジュールのものではないわけです。培養細胞が倍に増えるのは、半日から1日以上必要である。マウスの妊娠期間が21日、大人になるのが生まれてから40日後というようなスケジュールですと、実験材料を集めるのにも時間がかかる。即断で短期間に白黒つけることはできないわけです。政治や組織の都合と、こういう研究に要する時間的感覚というのは一致するものではないでしょう。

こういう状況の中、情報不足やデマ的な情報から、様々な混乱が生じています。メディア報道の中にもデマがあるという状況です。ただ、このような事態において、一点、指摘しておきたいことがあります。世の常として、悪いものは容易に目につくが、過去における良いものは目につきにくいということです。つまり、こういう混乱の中で、CDBだけの運営に問題があったとか、そういう議論になるのは、何だか奇妙だと、私は感じています。もちろん、過剰宣伝に関わった副センター長などの責任問題は、理研が、どういう形で対応するのかわかりませんが、研究者コミュニティや世間が十分納得できるような形になることは大切だと思います。根本的な原因を考えれば、真偽はともかく研究成果の売り込み過ぎ、ヤラセや演出などを含めて過剰宣伝せざるを得ないような切迫した状況があったということが、もっと理解されるべきでしょう。私は、研究費、人事などの運営、科学研究の政策誘導にあたって、ヤラセ、演出といった不誠実な行為が様々な場面で日常的に行われていることが、日本の科学研究体制における構造的な問題であると思います。いずれにしても、科学研究とは、過去を振り返り「こうすればよかった」と後悔してばかりいるものとは違う。もちろん反省も大切ですが、それ以上に前向きに創造的な研究をすることが最大のプライオリティであるべきだと思います。このことを忘れず、問題を解決するべきだと思います。

ここで、理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター(理研CDB)の設立の経緯について、触れておきたいと思います。戦前から長い歴史のある理研は、戦後、和光の研究所が主に研究を主導してきました。ところが、1990年代の中頃になると、バイオ系では、脳を研究するために設立された脳科学総合研究センター(理研BSI)を皮切りに(正式には、1997年)、本所だけなく各地に、その分野で主導的な役割をする大きな予算規模を持つセンターがいくつか設置されたわけです。BSIができたのは、伊藤正男さんが、当時、日本の学術界のトップにあったのと、米国のDecade of the Brainを真似た「脳の世紀」というスローガンのもとで、東京近辺に作るというのが官僚や政府を説得しやすかったのでしょう。そもそも1990年代の中頃というのは、再生医療なんていう言葉はなかったです。発生、再生なんていうのは、マイナーな分野でした。ゲノムはまだ本当にシーケンシングできるのか、という懐疑論が多かった時代。ですから、脳の研究所BSIができたのです。

CDBの設立は、BSIがモデルだったと思います。岡田節人さんあたりが、そういうものを考えて推進し始めた時に、神戸の地震からの復興、21世紀になるという状況で、政府のミレニアム・プロジェクトの1つとして設立されたわけです(正式には、2000年)。当初は、再生医療というより、複雑系としての発生生物学なんていうとても難しい言葉が設立の理由にあったりしたと思います。それでも、幹細胞とか、再生医療などというような分野が、世界的に盛んになる前に、いち早く、日本に、このような研究施設を設立したというのは、卓見であったと思います。

一方で、先行して設立されたBSIというのは、その立ち上げに大きく関与したグループリーダーという管理者的な研究者が、自分のラボ出身者を優先的にチームリーダーにするというコネ人事を実施したわけです。更に、東大などにもラボを持っていて、BSIに2つ目の稼働ラボを持つという、これもまたやり放題とも言えるような状況にしたわけです。こういうラボを複数持って、規模だけを大きくし、ポスドク、大学院生、技術員などを多く抱えれば、沢山の論文が発表され、研究が盛んになっているように見えます。BSIと東大で2重発表すれば、どちらの機関にとっても、業績が増える。報道発表が増えて、年度末の報告書が厚くなる。ですから、官僚や事務関係などの受けはよく、研究費が更に増えるというような拡大のサイクルに入ったのです。もちろん、こういうやり方やあり方に、疑問を感じる研究者も、東大を始めとして全国に多数いました。有利になるのは、その関係者だけになったわけですから、おそらく、こういう状態を見てハッピーに感じていたのは、このグループの内部にいる構成員だけだったのではないか、と思います。更に、こういう大きなグループになっても、研究代表者は一人というような状態では、十分な研究管理ができないのではないか、という指摘もあったわけです。そして、BSIの場合、遺伝子スパイ事件など、大きく報道されて世の中に見える形ででてきたスキャンダルもあれば、センター関係者は知っているのに、世の中にはほとんどでてこなかったスキャンダルもあったりするわけです。ちなみに、BSIは、今回、学位論文の審査体制など別の問題が明るみにでている早稲田大学とも連携しています。このBSIと早稲田大学の連携体制のあり方についても、関係者の間では、疑問の声が上がっているのです。研究体制の構造的な問題ということを議論するなら、BSIこそ、大きな欠陥があるのではないでしょうか。

京大関係者の主導でできたCDBの運営というのは、基本的には、BSIのこうした運営に対する反感があったのではないでしょうか。CDBでは、センター長やグループリーダーのラボ出身者は内部にラボを持たせない(もちろん、一部の人事は、コネ人事だという判断も可能ではあったが)。そして、京大などの大学のポストは、客員という形で大学院生のリクルートの目的で残すが、京大で稼働しているラボは物理的に消滅させる。つまり、BSIのグループリーダーがやっていたことをやらない、ということがとても重要なことだったのです。例えば、京大再生医科学研究所の笹井芳樹教授が京大のラボを完全に閉めて、その同じポスト(再生誘導分野)の後任にNAIST教授だった山中伸弥さんが着任したというのは、こういう理由によるのでしょう。

その結果、CDBは、今回の問題の前には、研究者コミュニティでは、いくつかある理研のセンターの中では、運営が高く評価され、クリーンなイメージがあったのです。そして、スキャンダルというものがないという、そういうクリーンなイメージがあったからこそ、皮肉にも今回の当初の過剰宣伝に成功したというところはあると思うのです。そして、コネのない若手研究者に自由に挑戦、活躍の場を与えるとか、男女共同参画とか、そういう形で、派手ではないものの着実に成功している例は多くあるわけです。今回の問題を契機に、CDBの伝統とも言えるこういうあり方が科学研究を実施する上で危険であるとか、問題があるとか、見直して止める必要があるとか、そういう議論になってしまうとしたら、とても残念なことです。この点に関しての問題は、あくまで個人の問題として分析されるべきです。例えば、今回の問題のロールモデルとしての「若手」「女性」「経歴がメジャーでない」というようなイメージを想起させる研究者のリクルート、つまりポジティブ・アクションとか、米国流に言えばアファーマティブ・アクションに極めて慎重になってしまうという結果になるとしたら、それは残念であると思います。ひいては、日本国内の研究者人事のあり方にも影響を与えかねません。「老人」「男性」「経歴が主流派」ばかりになったら、日本の研究環境の多様性は失われ、昔に戻ったようになってしまいます。

大切なのは、人事の問題とか、運営の問題とか、そういう点でCDBに問題ありとするのなら、それは理研全体の問題であり(例えば、官僚的な運営を含めて)、コネ人事では他のセンターの方が問題であるのに、それに目を向けずに、CDBだけが悪いという形になるのは、私としては違和感があるのです。

研究問題というと、通常、制度や仕組みの問題を議論するということになると思います。このようなことは、他の方が大いに議論されると思いますし、共通する意見や提案が多くでてくるでしょう。しかし、一般論としてですが、制度や仕組みの問題というのは、実は日本で研究活動を行う上で、それほど深刻な問題ではないのではないか。つまり、これまでの制度や仕組みの中でも、実際に多くの研究がなされ、多くの研究者が利用し、それほど困ったという声がなかったものばかりなのです。我慢したり工夫すれば、何とかやっていけるというものがほとんどではないか。本当に深刻な問題だったら、変わります。多くの人がそういう方向で動くでしょう。例えば、殺人は真に深刻な問題だから、大きな罪になるというルールができたのです。

今回、私はこれらとは違った観点から、日本の研究費、そして科学研究推進において極めて深刻であるにも関わらず、多くの人に気づかれていない、あるいはタブーとされてきた問題点について、論じてみたいと思います。簡単に言うと、日本での研究活動がやりにくいという問題のかなりの部分というのは、制度や仕組みの問題ではなくて、実はリーダシップを取る研究者のそれぞれの「個人」の意識、倫理観、知識の欠如から生じているのではないか、ということです。そして、そちらの方が想像以上に深刻なのではなかろうか、という問題提起であります。

まず、その前に、私自身について、ごく簡単に自己紹介させていただきます。私は、現在、50才を過ぎた神経科学分野のポスドクです。業績がないから、そうなったのだろう、というご意見があるか、と思います。でも、神経科学の分野では世界で最も有名な教科書に、日本人としては最も数多く研究が紹介されたり、名前が掲載されたりしています。しかし、日本で職を探そうとすると、明らかな妨害工作を受け、見つけることができませんでした。このこと自体が奇妙なことであると思うのですが、経緯を考えると、やはり日本での科学者コミュニティからのパワーハラスメントにあったということです。つまり、日本の科学者コミュニティの仕業でキャリアが潰れてしまったということです。そして、このような人というのは、過去においても現在においても結構多数いるのではないか。戦う意欲のない人達は、日本から逃げて、海外でキャリアを求めたりする。現実に海外で名を馳せた研究者の中には、日本で職が見つからなかったからという消極的な理由で海外でキャリアを確立した方も多いでしょう。一方で、私のように消えていく研究者や最後まで戦おうとする人もいます。これは深刻な問題です。日本の中で研究者としてやっていけるか、やっていけないという死活問題に関わるのですから。同時に、日本の科学研究の発展にとっても、真のイノベーションを生む研究環境、グローバルな視点、異分野間での交流、若手研究者育成などの観点から、極めて深刻な問題であると私は考えます。

おそらく研究者の皆様も気づいていると思いますが、俗に「コネ」と呼ばれるものがあります。科学研究費、組織運営、人事などの点について、この「コネ」というものが多くあると思います。そして、日本の科学研究のあり方を大きく歪めているのではないか、というのは多くの人が実はそれとなく気づいています。「コネ」を利用している人も、そのことを知っているから積極的に「コネ」を利用するわけです。一方、「コネ」がない人は、こういう点について、大きな不満があるわけです。

こういう「コネ」というのは、結局のところ、Conflicts of Interests(相反利益)が排除できない、倫理観に問題があるということを意味しています。この倫理観というのは、研究者それぞれについて、様々な認識があります。制度や仕組みでコントロールされているものではなくて、端的に言えば、リーダーシップを持つ研究者の個人的な行動とか、感情とか、そういう制度や仕組みを超越したレベルで支配されているということです。こういう感情の中には、研究の評価も含まれたりするわけです。例えば、自分の弟子だから、研究の評価も高いなどという、科学的でない論理が横行しています。科学的根拠や決まりより、個々人の感情に支配されるような研究費運用などというのがありうるのでしょうか。人事などでも、科学的な論理より、個々人の感情に基づく運用が随所で見られます。例えば、ある研究所では、本来ならいろいろな分野から、いろいろな多様なバックグラウンドを持った人をリクルートするべきであるはずなのに、実際は部長クラス、研究所長クラスの研究者の関係者ばかりが「コネ」でリクルートされているとか、そういうのは枚挙に暇がないでしょう。更に問題を複雑化しているのは、こういうのは、それぞれの大学や研究所の中だけで見られるだけでなく、日本の科学者全体が一つのコミュニティを形成していて、その中で、同様な現象が見られるということです。一方においては、それぞれの大学や研究所の自治などというもっともらしい理由で、そういう行為の苦し紛れの正当化がなされているわけです。

科学的根拠に基づかず、「コネ」を含めた感情で運用するような研究費の分配、あるいは組織の運営がどうして生じるのか。結局のところ、審査や運営にあたる個々人としての研究者の意識、倫理観、知識の問題に帰すると思われます。例えば、なぜConflicts of Interestsが排除できないのか。Conflicts of Interestsがあると感じたら、自ら身を引くというような行動はとれないものか。審査や運営にあたって、重要な情報が、事前にリーダーシップを取るべき研究者のみに独占され、既得権益の確保や自らへの利益誘導に活用されてしまうのは何故なのか。学校教育法改正で法的根拠がなくなった講座制やそれを想起させるような人事が、依然として主要な研究機関で実施されているのはなぜなのか。

このようなことを考慮して清く正しく活動できるリーダーシップを積極的に高く評価すること(評価の評価)、そのためにリーダーシップを発揮するような研究者を研修などで人格面まで含めて再教育することで意識を向上させたり、Conflicts of Interestsの排除というようなコンプライアンスに関わる知識を持たせること、更には違反者には罰則の制度を作る必要があるのではないか、ということです。Conflicts of Interestsを排除するような厳密な方針が必要ではないのか。利己利益を優先する行動をとったリーダーシップを持った研究者やその結果について、懲罰が必要ではないのか。そもそも国内の研究機関、あるいは国内の科学研究においてのリーダーシップのあり方が体をなしていないのではないのか。大切なのは、このような個人のリーダーシップの意識、倫理観、知識のあり方というのを、日本の科学研究を発展させる上での最も本質的かつ深刻な中心課題として捉えていくということであると思います。
ishiki
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