わがまま科学者

米国ボストン在住の神経科学研究者のブログです。科学、教育などに関する雑多な私見、主張。1ヶ月に1度程度の更新予定。Twitter:@yamagatm3   研究者情報:https://about.me/masahito.yamagata/

カテゴリ:教育

日本では、高校から大学の入試改革が、2020年くらいから本格化するということで、そういう議論は盛んに行われています。同世代人口の半数が大学に進学するという時代、大学というのは多くの人にとって身近な話題ですから、関心を持たれやすいのでしょう。

ところが、大学院の入試というと、ほとんど話題にはならない。そして、大学院で行われている教育の問題についても、同様に議論されることが少ないです。そんな折、早稲田大学での博士論文の問題というのが、報道でも大きく取り上げられました。そして、日本の大学院教育のごく一部の問題だけが、議論されました。早稲田大学での事例については様々な見解があるでしょうが、日本の大学院教育の問題について、一般論として深く議論したサイトというのはあまり見かけません。そこで、今回は、この問題について、わがままに論じ、いくつかの提案をしてみたいと思います。

日本は、キャッチアップ型の産業構造の時代を終え、先端産業などでイノベーションを進める社会にならないといけない。こういう時代では、国民全体の知的なレベルを高め、創造的な研究を行うことが重要なのは言うまでもありません。そこで研究人材の育成の場である大学院の教育を、そういう観点から議論してみたいのです。

なお、今回の私の議論は、大学院でも研究系、特にバイオ基礎研究系を想定したものです。例えば、法科大学院や経営大学院などの実務型大学院、いわゆる文系の研究大学院については、私自身よく知りませんし、更に工学系などの技術系の大学院については、当てはまらないという事項も多々あると思います。また、このブログは別のところで書いたものを、修正したので、上から順番に読んでいくと論理的に繋がりにくい部分があります。全体をうまく再編成する時間がないので、雑文の寄せ集めのようになっていますが、言いたいことだけはわかるようになっているとは思います。

目次
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日本は真の「高学歴社会」になっていない
「大学院重点化」に対応できなかった日本の社会
大学院生は増やすべきだ。減らせというのはネガティブ思考なのでは?
「大学院入試」の改革を国の責任で実施せよ
本気でAO入試をやれ
博士前期課程(修士課程)を「廃止」もしくは、修士の位置づけを変更せよ
教育を真面目に行え:論文博士は廃止?
世界基準を満たさない大学院をなんとかせよ
研究指導を考える:「客観的」な指導システムを確立せよ
1)奴隷と無責任の根源は同じ
2)教員層と指導の薄さ
3)客観的な指導システムを導入せよ
4)キャリアパスのプログラムも大切
5)放任主義について
社会との関係を強めよ:大学から大学院入学までのギャップ期間を評価する
授業料を無料にして、給料を出せ(研究系)
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日本は真の「高学歴社会」になっていない

日本では、早稲田大学の大学院の教育、学位審査、そしてそれがもたらした結果について、あのような問題が起きても、結局、議論が深まらない。私は、これは、1つには日本という国が真の「高学歴社会」になっていないから、そういう問題が気にならない人が多いのではないか、と感じています。ここで私が言う「高学歴社会」というのは、いわゆる有名難関大学の学部卒の学歴を持った人が多くいるという社会ではありません。「高学歴社会」というのは、大学卒業後に、更に学歴を積んだ人が多くいる社会ということです。

例えば、新聞記者の学歴がどれくらいのものなのでしょうか。そして、記者になってから、例えば大学院に入り直すような形で更にスキルや知識を磨くようなキャリア形成が多くの記者になされているのでしょうか。科学記事を書いている記者の学歴はどれくらいのものか?文部科学省や財務省などの官僚の学歴がどれくらいのものか?国家公務員一種試験に合格するような頭脳はあっても、研究経験もほとんどないだろうし、そういう経歴のキャリア官僚が中心になって官庁を動かしているのではないでしょうか。時々、海外の大学院(大抵、修士レベル)に数年留学したというような官僚を見かけることがありますが、気軽に留学したという「箔付け」のようなものではないでしょうか。官僚も、自分に大学院で研究した経験がないので、そういうのには疎くて、人ごとみたいな部分があるのではないでしょうか。更には、政治家はどうか?日本の政治家のどれくらいが大学院で学んだことがあるのか。博士の学位を持っている議員はどれくらいいるのか?大臣はどうか?博士を持った大臣はいますか?一般の大衆にしても、大学には関心を持つものの、大学院の教育には関心がない人が大多数でしょう。大学院の教育問題というのは、大部分の記者、官僚、政治家、大衆にとっては、自分達の知らないものであるので、自分の問題として捉えることができないのではないかと思うのです。

ここで、米国や欧州の場合と較べてみたくなるのです。ニューヨーク・タイムズなどの科学記事を書いている記者やサイエンス・ライターは、皆、博士を持っています。官僚の多くもそうだと思います。博士を取ったばかりの人が、ワシントンDCに行くのだと、よくあります。ハーバード大学のケネディスクール(政治の大学院)では、いつも政策の研究をやっていて、政権が替わると、リボルビングドアとして、ワシントンDCに移る博士が多数います。ドイツの大臣が博士論文に剽窃があって問題になったとか。皮肉なことですが、大臣が博士を持っているから、こういう問題が起こるのです。博士ではありませんが、米国で企業の偉い人になろうと思ったら、ビジネススクール(大学院)で学び、MBAを取得することは常識だと思います。また、米国では、日本でも真似して作ってうまくいっていないロースクールだけでなく、医師を養成するメディカル・スクールも大学院です。そして、こういうのを1つだけでなくて、2つも、3つも持っている人もいたりするのです。大学院という高学歴キャリアが社会の中で確立している。つまり、学歴の高い人々が社会を動かす人達が活躍する「高学歴社会」ということになっているわけです。

こうしてみると、日本の国民の世論に影響を与えたり、政策を動かしたりしている人達というのは、米国に較べて「学歴が低い」のです。これが、日本が真の「高学歴社会」ではないということです。出身大学名を競う学歴社会ではなくて、知識や思考力を鍛えた質を競う「高学歴社会」になる必要があると思います。私は、例えば、最低限でも文部科学大臣だけは博士を持った人が就任するべきではないか、と思います。昔、有馬朗人博士が文部大臣をやっていましたが、有馬さんのように、東大総長や理研理事長などを歴任して偉くなってから民間から転身するのではなくて、若手の議員でも博士が増えて、そういう人が入閣する。閣僚の何人かは博士を持っているべきではないでしょうか。政策を深い学術的な知識に基いて判断する力が必要だと思います。そういう状態になれば、日本の政治のあり方というのも、かなり変化してくるのではないか、と私は思うのです。もちろん、政治や行政に「素人」感覚は必要ですが、そればかりでは困るわけです。実際、政策などの国際会議などの場では、日本から出席してくる政治家や官僚の学歴が他国に較べて低いということも、しばしば話題になります。

日本で、もっとやった方がよいと思うのは、日本を「高学歴社会」にする必要があるというキャンペーンだと思います。例えば、リーダー的な地位にある大学学部卒業の人がいたら、その場合、「学歴が不十分」と感じるような社会を目指すということです。そして、意欲とチャンスさえあれば、誰でも、大学院に行けるという仕組みを作ることも大切です。もちろん、米国にもビル・ゲイツのような人もいますし、多様性やアウトライヤーがあっていいのですが、社会全体としては「高学歴社会」を目指すということです。



「大学院重点化」に対応できなかった日本の社会

私が大学院生だったころ(1980年代)と、現在の違いはいくつかあると思うのです。例えば、昔は主要大学の大学院で博士を取れば、 半分くらいは、何だかんだ言っても、アカポスには就けたものです。指導なんていうのも、大学院によっては、かなりいい加減というか、完全放任型のラボも多かったし、授業なんていうのも、「やったことにして、単位がでる」ということだったと思います。それでも、大学院の質はそれなりに保たれていたのです。

こういうのは、余裕があった時代だったということだと思います。こういう時代で育ってきた研究者が現在60才くらいの指導層になっているということで、昔のやり方を続けている。そして、建前ばかりのファカルティ・ディベロップメントのマニュアルと、実態を理解していない文科省官僚の指導の影響で、大学院教育が崩壊してきているのではないか、と思います。

日本の場合、特に大きな変化があったのは、1990年代の「大学院重点化」という施策だったと思います。要するに、教官(当時は公務員だった)を大学の教官から大学院の教官にして、大学院の入学定員を大幅に増加させた。特に、旧帝大のような研究大学が大幅に入学定員を増やしたので、その結果、研究大学の学生の質が変化し始めた。一方、優秀な学生が旧帝大等の大学院に行ってしまう中堅の国公立大学や私立大学の大学院の質が下がってしまった。そして、博士増産体制になって、ポスドクだけは増えたものの、その先のアカポスの数が少なくなった。また、アカポスも不安定な地位であるもの が大幅に増えたということでしょう。その結果、大学院、特に博士課程への進学を躊躇する学生が増えて、大学院の質も変化し、研究者育成の観点でも大きな問題がでてきたのでしょう。

私が思うのは、「大学院重点化」をやっても、日本の社会がそれに対応できなかった、変化できないでいるということです。それは、法科大学院などの事実上の失敗とも関係していると思います。また、メディカルスクールのようなものが、米国のように大学院から始まるというようなものにならず、依然として、18才の大学入試が利用されている。民間企業や官公庁などでも、博士の活躍の場が少ない。こういうのは、結局、既得権益を持った人がいて、社会が変化すると自分達の立場が悪くなってしまうということが、背景にあるのではないか、と思うのです。

ここでも問題は本質を議論できない社会のあり方と、アンシャンレジームや既得権益を捨てることができない人々の姿に、原因を求めることができるのではないでしょうか。


大学院生は増やすべきだ。減らせというのはネガティブ思考なのでは?
昨今、大学院で学位を取得しても、ポスドク後、アカデミックのポストが少ないなど、行き先がないからという理由で、大学院の定員を削減するべきだというような提案があちこちで見られます。つまり、人材の吸収先がないのだから、そういう人材を作らないのがよいのではないか。こういう悲惨な状況があるので、若い人たちが、大学院への進学、特に博士の学位を取得するための進学を躊躇するようになってきており、それが研究の低迷化につながっている。こういう状況分析と意見があるわけです。一般論としては、もっともなことであると思います。

しかし、私は、逆に、今、大学院の定員は現状維持か、むしろ増員するべきではないか、と提案したいです。定員を満たせないのなら、原因を除去し、努力をしないといけないと思います。日本も一昔前は、特に地方では、中学校や高校卒業者が中心になった社会でした。それが、人口の半分くらいが大学に進学する時代になり、以前は多くあった短大もほとんどが4年制の大学になってしまいました。高校の学歴を持った人が大部分を占めていた社会と大卒の人が半分になった社会を較べた時、どちらが、高度な情報や複雑な仕事を行うのに適した社会になったか。これは言うまでもないと思います。社会が発展すれば、高学歴の社会になり、人々の知識やスキル、思考法のベースラインが上がった方がよいに決まっているのです。

こういう点から、私は大学院の定員を削減するべきだという提案は、ネガティブ思考ではないか、と思うのです。前項で書いたように、「高学歴社会」を目指すように、大学卒業で満足している多くの人達に檄を飛ばすべきではないか、と思います。そして、過去の世代が、自分達の立場を守るために、高学歴社会になるのを妨害しているような社会を変換していくべきです。そのためにも、高学歴者が多い方がよいのです。

また、国の立場から言えば、悲惨になる人が出ても、一方でイノベーションが起こる可能性が高まれば、新しい産業が起こり、結果的に多くの人々を助けることになる(功利主義)。イノベーションは、多く打てば当たるという要素があります。そういう人の人数が多い方がチャンスは高まるはずでしょう。高学歴社会にならない原因は、アンシャンレジームや既得権益を捨てることができない過去の価値観で生きている世代の存在にあるのですから、こういう勢力に対抗するような施策を行うか、あるいは新しい博士世代が新しい領域を開いていくという気概が大切ではないでしょうか。



「大学院入試」の改革を国の責任で実施せよ

日本の大学院を改善するためのいくつかの提案をしてみたいと思います。まず、「入試」です。日本では、高校から大学への入試については、多くの議論があって、2020年から始まる新しい入試制度なんていうのも、本当にできるのか、などと、まだ議論しているわけです。ところが、大学院の入試というのは、ほとんど議論されません。

大学院の入試というのは、本当にやっているのでしょうか。大学院重点化前は、結構、真面目にやっていたように思うのですが、定員が増えてから、奴隷が欲しい研究者の欲望にまかせて、その様子が変化してしまったのではないか、と思います。もちろん、一部には難関とも思える大学院もあると思うのですが。。

米国では、一般の大学院、例えば理学研究科などに相当するような大学院に入る場合は、GREとAO入試があります。私は、これを日本でもやったらどうか、と思うのです。ちなみに、GREというのは、およそこういうものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/GRE

つまり、大学院に入るための全国共通の「センター試験」みたいなものを実施するということです。2020年から始まるとされる新しい大学入試ではコンピュー ターでやる方式とか、年に何回でも受験できるというような方式が議論されているようです。ところが、記述式解答の採点の技術的問題とか、あるいはお金持ちが行く中高一貫校みたいな学校の生徒が有利になるとか、言われていて、まだ議論が続いているようです。

でも、大学院の入試でこういうテストを実施するのは、あまり問題がないと思います。極端な場合、完全にマーク方式でよいのではないでしょうか。専門科目も英語の方が良いかもしれません。受験競争の高年齢化を招くなんていう変な議論もでてこないでしょう。逆に、大学院入試をこういう形で実施すれば、大学院入試そのものに価値がでてきて、大学院進学の意欲が向上する可能性もあるのではないか、と思うのです。世の中には、試験や資格を目標にして勉強する人々が多いですから、そういう意欲を煽ることができるのではないか、ということです。現在、大学院の入試問題というのは、それぞれの大学の先生が作製するので、その大学で勉強したことがそのまま出題されたり、自校出身者に有利になるようになっていると思いますが、そういうバイアスも除去することができるし、それぞれの大学の先生が入試問題を作製する雑用も少なくなるのではないでしょうか。

GREの成績を含めて、それぞれの大学院でのAO入試(後述)にすれば、特殊な能力や経験なども参考にできるので、点数だけによらない選抜も容易に行える。1点刻みの点数を競うのではなく、あくまで、おおまかな成績ランキング付けを行う大学院入学資格のための試験のようなものとして活用するということです。

こういう試験を導入すると、学生にとっては、大学での勉強のモティベーションになるだろうし、大学学部の専門教育の質保証にもなるでしょう。そして、大学から大学院に進学する時に、大学とは違う大学院に行くことが促進されるのではないでしょうか。大学院の自校出身者の率を大幅に下げるということです。日本の大学院共通試験として英語で受験することができれば、海外からの受験者も増えると思います。日本国外でも受験できるようにすればよいと思います。文科省の事業として実施できれば、世界各国の主要都市に試験会場を設置したりすることも容易になると思います。

米国では、学部はハーバード大学で、大学院でスタンフォードとか、そういう形で、違うところに行くというのが、典型的なキャリアになっているわけです。例え ば、ハーバードの大学院の場合、ハーバード学部の出身者なんていうのは、1割くらいだと思います(私の感覚です)。違う大学の出身者を混ぜ、外国からの受験者も混ぜ、その中で国際性が高まってくる。こうやって、黒川清さんではないですが、「大相撲化」http://kiyoshikurokawa.com/jp/2006/06/2_71aa.html が起こるのです。また、東京出身の人が地方に行ったりするので、地方の活性化にもつながります。そして、ラボや大学による「囲い込み」が崩れるのです(これについては後述)。

例えば、東京大学の大学院が、入学者の自校出身率を10%にまで下げるということを、AO入試でやったらどうなるでしょうか。それでは困ると東京大学の先生方は主張するでしょうか。大学の序列化というのは、おそらく18才の大学入試で堅固に築かれているのだと思うのですが、大学の序列化の存在は、科学研究に有効なのでしょうか。ノーベル賞受賞者に東京大学出身者が少ないのはどう説明するのでしょうか。

GREのような試験を実施するとなると、どうしても国(文科省)の関与が必要になりますし、大学入試センターのようなものを設置して(あるいは大学入試セ ンターの内部に)、このようなものを実施したらよいと思いますが、いざ実施するとなると、時間がかかるでしょうね。英語では、TOEICやTOEFLのよ うな外部試験を活用している研究科も増えてきていますが、こういうのも費用負担が大きい(受験料が高額)とか、資格試験や大学入試ではなく「大学院入試」に相応しい内容かどうか、というのは議論があると思います。例えば、理工系の大学院入試で、TOEICの点数を提出させるようなものが、本当に大学院入試として正しい評価なのか、私は疑問です。最初は、日本の複数の大学院が共同作業するような形で、このような試験を小規模に開始するというのは可能かもしれません。



本気でAO入試をやれ
そして、GREのような基礎の共通試験と同時に、本気でAO入試をやるというのも、大切であると思います。入試を行う1つの理由は、学力や適性をみるということがあると思いますが、もう1つの大切な理由は、学生にその入試のための準備を通じて、考えさせる、モティベーションを高めるということであると思うのです。ですから、準備をさせることで、それが入学してくる人の教育にもなっているわけです。

学部時代に、1, 2年生からラボに入って、論文を書いて、それが科学雑誌に掲載される。学部卒業後に、テクニシャンのような形でラボで働き、そこで論文を書いて、科学雑誌 に掲載される(こういうキャリアの大切さについては、後述)。こういう積極的な活動が、大学院入試では評価されるべきだと、私は思うのです。現在はどうで しょうか。裏で、あの学生は優秀だということで、いろいろな配慮が行われている可能性はありますが、それが公式に評価されていないと思うのです。高校から 大学への推薦AO入試では、例えば科学オリンピックの国際大会で優秀な成績を修めたとか、そういうことが高く評価されるわけですから、大学院入学前に行っ た活動も、同じように評価されるべきではないでしょうか。

そして、AO入試のためのエッセイを書かせて、それを評価する。これは大したことではないでしょうが、大学生の時、米国の大学に滞在して、短期間ラボで働い て英語力も向上したというような積極性は評価するべきです。例えば、大学生になって、旅行に行って世界各地の動物園に行くことで、動物の多様性への関心を 高めた。世界各地で昆虫採集をした。ボランティアをして医学研究に関心を持つような体験をしたので、基礎生物学の研究を通じて医学に貢献してみたい。こう いうことを、AO入試のエッセイに書かせて、評価するべきでしょう。エッセイを書くには、特別な経験をするとか、強いモティベーションを持つ体験をするというようなことが大切なわけです。こういうものが大学院入試で評価されるということになれば、大学生は、こういうものを積極的に経験するようになります。大学院でも、その後のキャリアでも、こういうモティベーションというのが大切だと思います。 ギャップイヤーや休学を奨励するような人達もいますが、結局、それもモティベーションをどのように作るかという理由なのだと思います。それと、推薦書も、大学の指導教員のような 人、1人だけでは不十分であると思います。

AO大学院入試で、何かスライドショーみたいなことをやらせて、それだけで合否を決定するなんていう怠慢なものでは不十分だと思います。米国の大学院の入試などみていると、GRE、エッセイ、推薦書、更に、2日くらい滞在させて、様々な活動に参加させる。教授と食事するなんていうこともやっているわけです (その食事の費用を大学院が負担する)。短時間の面接だけでは不十分なのではないでしょうか。

つまり、AO入試を、じっくり時間をかけて、本気になってやってみるということが大切ではないでしょうか。入試がいい加減ですと、選ぶ方も選ばれる方も、気持ちがいい加減になるのです。こんなに注意深く選抜したんだから、入学者を援助し、育ててみたいという意欲がでてくるわけです。いい加減に入学させていたのでは、こういう意欲は低くなるのではないでしょうか。

GREとAO入試は米国で行われているわけですが、日本で同様な選抜をきちんとやると、学生もそのために準備する。実は、その準備が、米国などの大学院の選抜の方向と一致しているということになるわけです。日本の大学にすれば不本意かもしれませんが、優秀な大学生が、米国の大学院を目指すということも促進されるのではないでしょうか。



博士前期課程(修士課程)を「廃止」もしくは、修士の位置づけを変更せよ

大学院に進学したら、ラボを選ぶために、ラボのローテーションをやる。米国ですと、1つのラボで3ヶ月くらい、そして3、4つほど回る。つまり、ローテーションに1年をかけるわけです。それぞれのラボに3ヶ月というのは、論文を書けるくらいの結果を出すのは難しいでしょうが、いろいろなラボの雰囲気を知ったり、違う技術やテーマに触れたりするのには、ちょうどよいくらいでしょうか。この1年間の間には、授業も沢山ある。特に、大学の専攻とは違う専攻の大学院に入学したような場合は、こういう授業は有効でしょう。つまり、分野の融合、学際的研究を人材育成として推進することにもつながります。当然、日本でも同じようなことをやったらどうか、と考えたくなるわけです。

ところが、日本の場合、修士(博士前期課程)に入った場合、1年間もこんなことに費やすのは、相当厳しい。特に、修士で大学院を出て、企業などへの就職を考えているような人の場合、1年間これをやったら、M2の最初から所属ラボで研究を開始すると同時に就活が始まる。こんなことしていたら、所属ラボでの研究に集中できない、就活もできない。こういう状態になってしまうわけです。従って、現状では、1年間もラボローテーションを続ける、授業を沢山受けさせるなんていうのは、無理と言ってよいでしょう。でも、最初から博士の取得を考えて、修士は1つのステップにすぎないと考えている院生にとっては、結果的には有意義な期間になるはずです。

米国の場合、大学院に入って、2年くらい経った時点で、いわゆる「クオリファイア」の試験というのがあります。これも大学院によってそれぞれ違うと思うのですのですが、大学院で2年過ごした段階で、本当に博士を取る適性と能力があるか、というのを試すわけです。よくあるのは、自分のやっている研究とは違う、あるテーマについて研究プロポーザルをさせるというような試験だと思います。ここで、失格となりますと、大学院は止めさせるということになります。そして、「修士」の学位が与えられるわけです。この場合、「修士」というのは、博士を取れない「残念賞」であるということです。もちろん、修士と言っても、いろいろあって、MBAのように、それに大きな価値があるというタイプのものも科学分野には存在するでしょうから、全部が「残念賞」というわけではありません。でも、一般に、研究を中心とする大学院の「修士」というのは、残念賞であるというのが現実だと思います。

日本の場合、現状では、修士というのは、企業などにとっては、学部卒より価値があるとされていると思います。特に、工学系などでは、修士が企業には大人気で、そのために修士課程に多くの理工系学生が行きたがる。ところが、修士で終わりで、博士を取る人というのは、かなり少なくなる。こういう傾向は、どんな分野でも多かれ少なかれあるのではないでしょうか。つまり「修士」の方が価値があって、博士になると企業には不要なものなってしまうという奇妙なことになっているわけです。もちろん、アカデミアに残って、教員や研究者というキャリアには博士は必須であるわけですが。。

米国の場合、修士は残念賞で、博士の価値が高い。日本の場合は、修士の人気が高く、博士になると不利になる。これでは、博士を取るというモティベーションが上がるわけがありません。私の提案としては、これを変えなくてはいけないということです。例えば、「修士課程」「博士前期課程」というのを廃止してしまい、「修士」の価値を小さくするようなシステム改革が必要なのではないか、ということです。


教育を真面目に行え:論文博士は廃止?
私が、米国でH1Bビザという労働ビザを取った時ですが、その必要書類の中に大学院での学位取得証明書とは別に、「Transcript」というのがありました。要するに成績証明書ですが、これがなければ、大学院を修了したことにならないというのです。学位証明書とTranscriptは、セットとして提出するものということです。私は、課程博士ですので、日本の大学院に頼んだら、すぐ英語のTranscriptが入手できました。ところが、日本では論文博士というのがあります。この場合は、大学院のTranscriptというのが存在しないというケースがあるのです。この場合は、ビザの取得に必要な書類が集められなくて、苦労するということです。成績証明書というのは、要するに米国の大学院では、授業をやって、単位を出し成績をつけているわけです。

日本の「論文博士」というのは、米国には存在しませんから、そういう概念がありません。博士というのは、博士課程で課程の教育を受けないと取れないのです。また、米国ではいわゆる査読付きオリジナル論文がなくても、博士論文だけで学位が取れたりします。もちろん、査読付き論文や査読付き論文になることが確実な内容を持った研究を、博士論文にするということが大切です。こういうのは、日本でも東京大学の大学院ではやっていると聞いたことがありますが、多くの大学院ではやはり査読付きオリジナル論文がないとだめでしょう。大学院によっては、査読付きオリジナル論文が複数ないとダメとか、そういう「査読付きオリジナル論文」の数に偏重した大学院もあります。こういうのは、逆に、個々の論文の質を高めないので、挑戦的な研究をディスカレッジするという意味で、教育的な効果が低いと思います。

大学院での教育を受けなくても博士になってしまう、つまり世界基準になっていない論文博士というのは、以前から止めようという議論が日本であるようですが、なくならないようです。そういうのが必要な人がいるということなのでしょうか。



世界基準を満たさない大学院をなんとかせよ

11月初めに早稲田大学の博士論文の問題が報道されて、話題になっていました。私が思うのは、早大は公開の学位公聴会みたいなものをやり直し、学位審査会をやるべきではなかったと思うのです。学内で、公開セミナーみたいなものをやらせてみたらよかったのではないか、と思うのです。早大の学位公聴会というか、いわゆるThesis Defenceが通常どのようになされているのかは知りませんが、確か、そういうものがあったと、報道でみたことがあります。本来は、学外者も含めて、学位公聴会をやった方がよいと思いますが、このケースの場合は混乱が予想されるので、参加者を限定して閉じたものにするのはやむを得ないでしょう。それでも、例えば、学科の構成員には教員、学生など含めて参加させて、自由に質問をさせてみたらよいのでは。。科学研究として成立するのか、そういうプロセスを厳密に確認したらよいのです。やはり、内部で勝手に決めてしまうのではなく、透明性を高めるということが必要でしょう。あるいは、学位取得者の不名誉な行為が理由で、学位を認めないのなら、そういう規定を学位規定に設置するべきなのだと思います。基本的には、早稲田大学の態度というのは、もう問題を掘り下げたくない。静かにして、形ばかりのガイドラインの公表で、お茶を濁したいということなのでしょうが。。

名目上は、学位を出すか、出さないか、の判断は、学位論文だけで決まるものではないでしょう。もちろん、それは前提ですが。。そもそも、米国の大学院では普通にある、個々の院生の教育機能を担う「Thesis Committee(学位論文委員会)」(後述)みたいなものが存在しないというところが問題であると思うのです。それは、早稲田大学が去年の10月に公表した「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」なるものにも、全く書かれていません。
http://www.waseda.jp/top/information/14763

これも、やはり大学院教育のあり方が世界基準になっていないということの一例だと思うのです。早稲田大学の大学院の事情をよく知るある方によれば、早稲田大学の大学院では、プレゼンのような何かを売り込むためのビジネスのような教育はしっかりやっているが、批判的に物事をみる科学的な訓練が不足している。例えば、ポスター発表では、美しく見た目のよいポスターを作ってくるのだが、その内容をよく見るとコントロールが取られていないとか、研究の基本ができていないものが多いということでした(どこかで聞いたような話です)。おそらく、こういう問題は、早稲田大学だけでなく、日本の多くの大学院でも似たような状況があると思います。是非、この機会にもっと議論を深めてほしいと思います。



研究指導を考える:「客観的」な指導システムを確立せよ

大学院での教育のあり方について、これから議論するのは、大学院という「組織」での教育、研究指導の「客観性」の観点、そしてキャリアパスを考慮した教育、そして当たり前なのですが、「教育せよ」ということなのだと思うのです。要するに、ある研究者の奴隷のように大学院生を扱ったらダメということです。大学院生は、ラボのテクニシャンではありません。大切なのは、個人の力を最大限伸ばすための教育を行うということです。それが、イノベーションを生み出す人材育成につながります。ここでは、早稲田大学の「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」を引用し、議論してみたいと思います。


1)奴隷と無責任の根源は同じ
早稲田大学「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」
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研究指導体制
(a)より質の高い研究者を育成する研究指導体制の再構築
(1) 副指導教員を置く。副指導教員の選任の時期および人数等については各研究科にて決定する。
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この大学院では、指導教員が1人のみだったのでしょうか。今更のように、副指導教員を置くと言っています。こういうのは、特定の大学院生をある指導教員だけの所属とするシステムの存在があるのだと思います。一見、TWinsのプログラムやハーバードなど外部に出しているように見えても、結局、特定の指導教員が、その大学院生を担当していたという実態の存在です。そして、ゆるい責任体制のあり方。実は、こういう体制は、日本全国にどこでもあるような感じになっているのでしょうね。日本では、大学院生というのは、ある研究室の持ち物(既得権のような所属概念、戦力、奴隷)のようになっていて、大学院、研究科として育成しようという意識が希薄なのです。

こういう問題意識というのは、おそらく日本の大学だけにいて、ずっと過ごしていても気づきにくいと思います。当たり前だと思ってしまっているからです。また、米国で2,3年とか、短期間、ラボで働いていても気づきにくい。要するに、日本の社会を、外部の目で客観的に見れるようになると気づくことだと思うのです。前述した大学院入試などでも、例えば入試前から、入りたいラボが決まっていて、そういうのを前提として、入学させるというのが、日本では多いと思います。そのラボが、大学の学部の時にいたのと、同じラボであるというケースもまた多いでしょう。

日本でもやっているところはあると思うのですが、大学院に入学すると、複数のラボを、1つのラボあたり数ヶ月、ローテーションさせて、大学院の研究を行う 所属ラボを決定していく。こういうのは、米国では当たり前だと思うのですが、日本では当たり前でないという研究科も多いのではないでしょうか。

つまり、入学前から、大学院生がある特定のラボの持ち物になってしまっている、ということだと思うのです。こういうことがあると、結局、ある特定教員(教授)の持ち物として、その人に絶対服従するという奴隷化が起こりやすい。もちろん、そういう特定教員にも、人柄が良いとか、理解があるという人もいるでしょう。ところが、その場合は、時に「無責任」ということになってしまう。早大の教授の場合は、そういうことなのか、と私は判断しています。 つまり、懲罰された教授というのは、ある意味で人柄がよくて、自分のところで学部の研究をやった院生を、その院生の希望をよく聞いて、外に出して、自分の専門分野とは異なる内容の学位まで面倒をみてやったということなのではないでしょうか。同じ研究科でも、こういう特定教員1人だけに、大学院生をまかせ、組織としての育成の意識が不足しているので、他人として注意を払わない。その結果、無責任さ、いい加減さが生まれたということです。

ある場合は、教授に服従する奴隷のような大学院生になるし、別のケースでは「理解あって人柄のよい教授」が無責任指導をする大学院生になる。一見、全く逆の状況を作りだしてしまうのですが、根源的な原因は同じなのだと思うのです。つまり、大学院生がある教授の「持ち物」になっていて、研究科として育成、教育しようという意識に欠けているということなのです。

この問題というのは、こんな場所でも同じように議論されていました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1335428.htm
「医療系大学院における教育・研究指導には、これまで、ややもすると大学院学生が所属する各研究室の指導教員に教育を任せきりにするという傾向も見られた。 しかしながら、先に示したように大学院の目的と教育内容を明確にし、教育・研究指導を実効性あるものにするためには、専攻単位で組織的に教育活動を計画す ることが重要である。」(2.課程制大学院の趣旨に沿った教育課程や研究指導の確立について(1)教育・研究指導の在り方について)

研究科や専攻科が、大学院生を育てるという意識が希薄である。こういうのは、研究科、更には、大学、そして文科省にまで行き着いてしまう問題である。一方で、指導教官となる個々の指導教員にも、そういう意識を持つことが求められるということだと思います。


2)教員層と指導の薄さ
早稲田大学「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」
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(b)研究指導を行う教員の専門領域と、指導を受ける大学院生の研究領域の適合性の確認
(1) 大学院生の研究領域と指導教員の専門領域との適合性を確認する。
(2) 外部の研究機関に研究指導の一部を委託する場合の責任を明確化する。「本学以外の研究機関に大学院生を預けて、研究指導の一部を依頼する委託研究指導」においては、研究指導の役割分担と責任体制について、機関間および外部研究者と本学指導教員との間で予め明確に取り決めることが必要である。この場合、研究科運営委員会または専攻会議の事前の承認を要する。
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1つの大学における教員層の薄さ。有名大学でも、大学院生がやりたい研究領域を提供できない。その結果、連携大学院みたいなシステムができる。研究所などは、大学院生の力(奴隷?)を必要な研究者が多いので、しばしば行われます。しかし、こうした連携には、責任意識が希薄な場合が多いです。私が気づいたのは、理研BSIと早稲田大学の連携の例です。STAP問題が起こった当初、理研BSIは、そのホームページで、早稲田大学との連携の記述を、突然、ホームページから削除していました。何か、「やばさ」があるのではと、勘ぐったりしています。

なぜ、日本の大学は教員層が薄いのでしょうか。これは、講座制みたいなものがあって、異なる研究をやっているような教員が少なくなってしまう。つまり、違った研究をやっているラボの数が少ないから、そうなってしまうのだと思います。今は法的根拠のなくなった「講座制」やそれに似たシステムというのは、1つの研究組織(研究科)の研究内容の多様性を減少させ、類似の研究内容の研究者を一箇所に集中させてしまう。そのために、ある1つの大学の大学院に多様な分野の教員を配置できないということになっているのではないでしょうか。そのために、1つの大学院だけでは、大学院生を第3者の目で指導するような仕組みをうまく提供できなくなっているのではないか、と思うのです。講座制のような仕組みと大学院生指導の仕組みをどうするのか、というのは、今一度、議論してみる必要があるのではないかと思います。

もちろん、私立大学など、教員数が少なすぎということもあるでしょう。早稲田大学を含め、日本の私立大学の理系学部というのは、学部教育もマスプロ教育になっていたり、そういう雰囲気が大学院にも蔓延している。これはやはり問題なのでしょうね。

日本の大学院の場合、旧帝大でも、ラボあたり、あるいは教員1人あたりの院生の数が、米国に較べてかなり多いのではないか、という印象を持っています(最近は、院生そのものの数が少なくなって、不本意にも状況が改善されているのかもしれません)。統計的な資料を見たことがないので事実かどうかは不明ですが、米国のラボというのは、いわゆる有力ラボでも、ラボのメンバーの数というのは、非常に少ないのです。そういう密な指導の中で大学院生を育てるということも大切だと思います。




3)客観的な指導システムを導入せよ

早稲田大学「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」
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(c)指導教員の交代を柔軟に行える制度の整備
(1) 必要な場合には、指導教員を交代させる制度を設ける。
() アカデミック/パワー/セクシャル・ハラスメントの疑いがある場合
() 学生の研究領域と指導教員の専門領域とのズレが大きくなった場合
() その他、指導教員を変更することが必要または妥当と研究科が判断する場合
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科学研究とは、主観的なものです。こういうテーマで研究をやるというのも主観的なものですし、こういう論文を書くというのも主観的なものであるわけです。日本の大学院の指導というのは、どうもこの「主観的」な指導だけに傾きすぎているのではないか、と思うのです。こう言っても、なかなか具体的にイメージしにくいと思いますが。。

例えば、指導教員が科学的な仮説を持っているとする。こういう実験をやれば、こういう結果がでるはずだ。そういう指導のもとで、大学院生が研究をやるわけです。場合によっては、そういう結果がでるまでやらせる。でなければ、その大学院生が無能だからということになる。あるいは、ラボの昔のメンバーがやった 研究を更に進めるために、ある実験をやらせる。ところが、その大学院生がやると、再現できない。こういう状況では、科学研究というのが指導教官の主観になっていて、客観的に大学院生の指導ができないような状態になっているわけです。

米国だと、こういうことはよくあったのでしょうね。指導に「客観性」がないと、院生の教育がうまくいかないということになったのだと思います。その1つの解決策が、院生個人ごとにThesis Committee(学位論文委員会)を作らせるというようなことでしょう。基本的には、院生1人ごとに、専門分野が関係する教員数人を選んで、年に1,2回、進捗状況を議論するというようなものです。例えば、ハーバードくらいになると、院生1人の委員会に、世界的権威が何人も入るというような恵まれた指導体制ができます。これも、いろいろな形態があると思うのですが、日本でもやるのは可能であるということで、そのひとつが、遺伝研で行われているという広海健さんがプリンストン大学での経験から持ち込んだシステムであると思うのです。

遺伝研の記述
http://www.nig.ac.jp/nig/ja/phd-program/main-page-top/whats-so-good-about-nig
「研究の客観性を高めるためには、所属研究室の指導教員とは別の教員と議論することも重要です。このような機会を生むべく、遺伝学専攻では複数教員が指導 に 参加するユニークな「プログレスレポート制度」を導入しています。この制度は、各々の学生が選んだ4人の教員が、所属研究室の指導教員を交えないプログレス委員会を組織して、研究の客観的な助言を行います。その他、所内ポスター発表会やリトリートなどのイベントも多数企画されており、所内のあらゆる教員や 研究者と議論する機会があります。」

また、専門分野が近いと、どうしても利益相反関係や何らかの人間関係が存在しやすいということがあります。米国の大学だと、更に、まったく違う分野のメンタリングのシステムがあったりする。例えば、動物の研究をしている院生が、研究上の利益相反関係のない植物科学の教員を選び、客観的なメンターとなってもらう。これは、パワハラ、アカハラなどのケースには有効に機能するでしょうね。実は、こういう「客観」的なメンタリングシステムというのは、ポスドクやジュニアファカルティの育成でも重要なポイントだと思います。

個人ごとの学位論文委員会とか、ラボローテーションとか、そういうのは、日本でもやっているところはあるのです。つまり、こういうのは「やろうとすればやることはできる」。ところが「やらない」「やりたくない」というような大学院があるということでしょう。つまり、「やったら都合が悪い」大学院がある、そういう研究者がいるということなのかもしれません。単に面倒だけというのが理由でしたら、教育の熱意に欠けていると思います。(別の社会的な理由は「博士前期課程(修士課程)を「廃止」もしくは、修士の位置づけを変更せよ」でも議論しました。)

例えば、院生をラボや教授の持ち物にしたいという欲望が強い教員が集まれば、「囲い込み」をやりたくなる。そして、自分以外の他所のラボで研究を体験させたら、比べられるということになって困る。場合によっては、逃げられてしまうかもしれないし。比べられたら困るなんていうのは、余程、自分達に自信がないのか、あるいは自分達のパワハラ的ラボ環境を知られたら困るのか。あるいは、サイエンス的に非常にマイナー分野で、何としても人材を確保したいというそういう教員もいるでしょうか。

学位論文委員会など作れば、自分のラボの院生がどんなことをやっているのかバレてしまう。他人のアドバイスを自分の院生に受けさせるなんていうのは耐えられない教員がいる。こういうのは、教育より、自分の研究を進めるための戦力として院生を使っているからなのかもしれません。確かに、日本も昔は院生というのは研究の戦力であって、そういう位置づけがされてきたのです。ところが、今や、ポスドクが溢れているような時代。院生というのは、戦力というより、教育の対象として育成する方向に意識を変えた方がよいでしょうね。少なくとも、ポスドクが多い一流大学院のラボでは、そうあるべきなのだと思います。もちろん、研究そのものが、最大の教育として、教育効果が高いわけですが。。院生に優れた教育を行えば、それが優秀なポスドクになり、他所のラボで活躍できるようになる。こういう教育者としての器が必要でしょう。

例えば、院生に与えるテーマでも、1つの手技だけを使って、ラボの中での部品の1つとして使うような極端な一芸研究をさせるようなラボ(「ピペド」院生)はダメでしょう。科学的な思考能力を磨けるような教育を行うべきですし、多様な体験を重視した方が、人材の育成には利点が多いと思います。意識的に多様な研究手法や思考法に触れさせる。例えば、免疫沈殿とウェスタンだけの論文を作製して、そこそこインパクトファクターの高い雑誌に1報だけ発表した学位取得者Aさん。様々な手法を用いた論文を仕上げて、更にラボ内の共同研究として違った感じの手法や分野の論文を仕上げる研究に加わった学位取得者Bさん。その後の研究者としての人生が、どちらが豊かになるのでしょうか。これは考え方にもよると思いますが。。



4)キャリアパスのプログラムも大切

大学院で博士を取っても、企業などでの就職先がない。私くらいの世代ですと、博士取得者の半分くらいは、何だかんだ言っても、いわゆるパーマネントなアカ ポスに就けたものです。もちろん、一生、助手みたいな形で終わるような人もいるし、研究というより、底辺大学での教員みたいな形になってしまった人もいま すが、それはそれでチャンスは与えられたのですし、そういう形で終わっても、まあ納得はできるという時代だったと思います。現在は、博士を取っても、出発 点にも立てないような人も結構いたりします。

現在の就職難の問題は、1つには、大学院での指導が不十分、あるいは不適切であったケースが多いのではないでしょうか。例えば、非常に特殊な技術だけを取得しても、そんなのは企業では役立たない。大学院のラボで戦力として使われてしまったために、十分なトレーニングができなくて、視野が狭くなってしまう。また、研究科では、大学院としての院生のキャリア教育の取り組みが不十分でキャリア形成ができない。

教員でも、自分のラボの大学院生が、自分のラボの研究活動以外の活動に参加したりするのを、そんなのは時間の無駄だとして、すごく嫌がる人がいると思います。例えば、キャリア形成のための催しみたいな行事に参加したりするのをディスカレッジするとか。また、ティーチング・アシスタントみたいのは、本来、大学生などを、本当に教育しなくてはいけない。米国では、ティーチング・アシスタントというのは、放課後に大学生に対して課外授業(教育経験)をやったりしていますが。。

つまり、大学院生がラボの持ち物になっているために、こういう「余分」な活動をさせないようにするという感じになっているのが、日本の大学院だと思うのです。その結果、視野が狭くなったり、キャリアのための取り組みが不十分になり、特殊な研究以外では使えないような博士を作っているのでしょうね。

こんなのは、大学院を悪くして、人気を低下させることで、大学院博士課程への進学者を減少させ、教員が自らの首を自分で絞めているようなものだと思うのです。キャリアパスのためのプログラムを重視するというのは大切であると思います。


5)放任主義について
ここで、敢えて研究指導のあり方として、放任主義というのを議論しておきたいと思います。放任主義というのは、研究指導の1つのやり方として、意図的にやっている教員も多いと思います。わかっていて意図的にやっているというのはよいと思います。問題は、それが放任主義というより、何も感じない、気づいていない教員がいるということなのかもしれません。

日本でも、いわゆるエリート的な大学院、例えば旧帝大のトップラボくらいですと、放任主義みたいなラボで成功している例も沢山あると思います。例えば、「大沢牧場」(大沢文夫氏のラボ)といわれた放牧型のラボとか。逆に、「伝説の沼研」のように、管理を徹底的に行うようなタイプもあるでしょうね。そ れぞれにメリットがあるでしょうし、そういう方針であることを知って、ラボを選べるような状態になっていれば、それはそれでよいことなのだと思います。逆 に、それぞれのタイプに合わないという個人もいるでしょうから、そういう場合は変更できる。そして、合わないと変更したからといって、後のキャリアでそれ がマイナスにならないということなら、全く問題はないと思います。

名大、阪大などで活躍し、そのラボが「大沢牧場」とも呼ばれた大沢文夫先生について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E6%96%87%E5%A4%AB
https://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no49/

1992年に亡くなったが、2015年になっても伝説となっている沼正作先生(雑誌「化学」に連載)
http://www.kagakudojin.co.jp/kagaku/web-kagaku01/c07007/c07007-kakidani/HTML/list1.html

一方で、地方大学や私立大学の大学院というのは、こういう旧帝大の大学院とはやや違う状況があるのではないか、と 思うのです。つまり、放任主義だと、教育そのものが崩壊してしまうので、かなり管理主義を強めないと、質が保たれないというような現状があるのではない か、と思うのです。米国でも、いわゆる地方大学というのがあり、そういう大学院では、卒業生の質を保とうとして非常に努力をしている。つまり、質の高い卒業生を送り出すことが、その大学院の評価になるという意識が非常に高いのです。日本の場合、地方大学の大学院が、旧帝大の大学院に負けじと、その卒業生の質を高めようという努力をどれくらいしているのか。ここが非常に大切であると思います。

朝日新聞のサイトに、杉浦由美子さんという方が教育問題についての論説を書いています。私はこの杉浦さんという方を知りませんが、現実を肯定し、それでどう生きていくか、という現実重視の論説を書いている。私は、逆に現実を否定して、それを変えようという立場ですので、考え方のギャップは大きいのですが、 そういう立場もあるという頭の体操に論説を見ています。その中で、こんな文章を見かけました。

なぜ小保方氏は「不公平」と批判するのか(上)
早稲田大の博士号取り消し 論文再提出の過程でもプリンセス扱いだったのに  杉浦由美子
http://webronza.asahi.com/national/articles/2015110500011.html
 「早稲田は全体的に放任主義で、大学院でもちゃんとした指導がされているとは思えない。特に理系は実験や実習の指導が必要ですが、それができる体制になっていないのでは。必然的におきた騒動だったと思います」(大学関係者)
「放任主義はデメリットもあるが、学生の自主自律を促すメリットもある。今回の不祥事をうけ、早稲田は、2006年以降に学内で博士号が授与された 2789本の論文をすべて見直すという作業をした。教員たちの負担はかなり大きかったときく。結果、2789本中89本からコピペ的な不正が見つかった (そのうち、48本は修正して、再提出させた)。つまり、不正が見つかったのは3%で、ほとんどの学生はちゃんとルールを守って、きちんと論文を書いてい るのだ。」

確かに、ほとんどの学生はきちんと論文を書いているかもしれませんが、不正?が見つかったのが3%もあるというのは問題でしょうね。おそらく、ほとんどがコピペ、剽窃の類だと思いますが。しかも、自主点検では、厳しく確認したというわけでもないでしょうから、見過ごした、見つけたけど微妙だったので良しとしたというようなものもあるのではないでしょうか。

早稲田のあのケースの場合、主査の専門が違う分野であるし、副査が外部の人であったり、名前だけ貸した外国人とか、そういう体制に問題があったわけでしょ う。しかも、剽窃というのは、その気で見つけようとしないと見つけることは難しいでしょう。まさに、問題が起こるような体制であったということです。

これが、学位審査委員会みたいなものを作って、客観的にそのプログレスを、共同研究者ではない専門領域の研究者の目で見ていたら、そういうのが起こらな かったのか、どうか、というのはわかりません。実際、あのケースの場合、剽窃を見つけようとしたから、大規模な剽窃が見つかったというわけです。おそらく STAP論文など出さずに、静かに研究をしていただけなら、発見されなかったのではないでしょうか。例えば、指導教員が責任を持って、一緒に研究しているという感じになっていたのなら、どこかで気づくこともできたのでしょうか。改めて、京大の佐々教授が表現した「夢の世界の住人」というブログを思い出します。
http://d.hatena.ne.jp/sasa3341/20140311



社会との関係を強めよ:大学から大学院入学までのギャップ期間を評価する

日本の大学院というのは、基本的に、学部卒業後、すぐに大学院に進学するというのが多数派で、それが基本になっていると思います。たまに学部卒業後、企業などに就職して、その後、辞めたりして、大学院に入ってくる人もいる。また、企業から大学院に派遣されてくるような人もいるでしょう。でも、こういう人達というのは、稀で、特殊な例であるわけです。

平均年齢38歳、ハーバード生の「頭の中」 なぜ彼らはキャリア半ばでやってくるのか?
http://toyokeizai.net/articles/-/88416

この記事に、政策学の大学院であるハーバードケネディスクールのケースがでていますが、こういうのは、MBAの取得をするビジネススクールでも同じだと思います。つまり、既に、社会経験豊富な人が集まってくる。理系でも、学部卒業後、何年か、企業や大学のラボでテクニシャンとして働いて、大学院に入学してくる人が多い。米国の大学ですと、大学卒業後、何故か、どこかの国に行ってしまうような人もいたりします。こういうのは、大学と大学院の間で行うギャップイヤーみたいなものだと思うのです。

最近、大学の秋入学などの制度とともに話題になる高校生から大学に入学するまでの期間のギャップイヤーいうのは、高卒後の「体験」的な要素が強いと思います。例えば、海外に出てみる、ボランティアをしてみるといったことで、自分探しをするという類の「体験」です。もちろん、こういうものも大切であると思います。また、大学を途中で休学して、同じような体験をしてみるというようなことも推奨する人達がいます。欧米では盛んに行われていると思います。

大学から大学院入学までのギャップ期間というのは、少し違うと思います。高校卒業後のギャップイヤーのような体験的な要素より、実務的なキャリアパスの意味がでてくる。ここが大切だと思うんです。大学卒業後、例えば、企業で働く、官公庁で働く、アカデミアでテクニシャンとして働くといった経験をしてきた人が入ることで、大学院生の質が多様になり、社会とのつながりができる。例えば、そういう人がラボにいれば、そういう経験のなかった院生への教育効果もあるわけです。そして、現在より、2,3年遅らせて、30才くらいで「博士」を取得することを標準にすればよい。もちろん、分野によっては、2,3年早く博士を取得するというのもあってよいと思います。また、博士を2つの分野で取得する、MBAと博士を取るなんていうのも、もっとあってよいと思います(私も、若くて、時間と経済的な余裕があればやってみたいです)。

でも、休学とか、ギャップイヤーとか、そういう空白の期間を作るのを、日本の社会はすごく嫌うというところはないでしょうか。履歴書に空白ができるとか、企業を辞めるのが経歴上の傷になるとか。こういう外れた経歴があったりすると、後になって「罰」を受けるような評価をされたりすることはないでしょうか。更には、年齢が高くなると、いろいろな制限にかかるようになる。例えば、こういうのは、奨学金とか、研究費まで関係していると思います。純粋に学術的な公募の募集で、年齢制限みたいなものを設定するのは、やはり年齢差別でしょう。こういうのは止めるべきだと思います。

それと、日本の学術界を見ていて思うのは、生み出している人材の数が、社会の求める人材の数とは乖離していることがあるのではないか、と思うのです。有力大学が、特定の研究者のラボを巨大化させて、特定の分野の人材ばかり生み出しているという印象があります。ラボを巨大化させるというのは、結局、研究費の集中が起こっているからでしょうが、その研究費の集中と大学院生の数が単純に比例していてよいのか、と感じたりするのです。巨大化したラボの関係者は、こういう部分にも注意を払い、自分のテーマでも適切な人材を生み出すように努力するべきではないでしょうか。ここでも、院生を安易に「戦力」として使ってしまうという指導(日本の前世紀型指導)を考えなおしてみる必要があるということです。

追記(11/16/2015):たまたまこういう河合塾のサイトを見つけました。今回の議論と関連する話題や施策についての情報が掲載されているようです。

「理工系人材育成に関する産学官円卓会議」報告



授業料を無料にして、給料を出せ(研究系)

最後ですが、日本の研究系大学院は、授業料を無料にして、大学院生全員がそれだけで生活できるくらいの給料を出す方策を考えるべきです。これができると、いろいろな問題を解決することができると思います。そもそもこれをやらないと、日本の研究系の大学院は、欧米の大学院には全く太刀打ちできません。

では、その財源をどこから出すのか?これについては、次回考えてみたいと思います。

IMG_0248

写真は、ハーバード大学の大学院Graduate School of Arts and Sciencesの学生センターとなっているDudley House
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次回のブログの更新は、2015年12月を予定しています。

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このところ、日本では、第5期科学技術基本計画(2016-2020)の議論が盛んになっているようです。日本の科学技術政策、大学、大学院、研究所、学会の運営。。何でもそうなのですが、「根本のところから議論しない」「根本のところの議論をさせない」「根本のところの議論ができない」。こういうところがあるのではないでしょうか?議論をしようとすると、「無駄だ」「くだらない」「そういうのが世の中だ」などという理由を付けて、議論から逃げてしまう。私は、こういう姿勢が、物事を根本から解決ができない理由だと思っています。

根本のところの議論をなおざりにして、表層的な議論から何か解決を目指しているようにみえる施策が決定される。その結果は、数値目標とか、予算獲得のための方便とか、リーダーを賛美するみたいなふうになってしまい、本来の「目的」を忘れ、結局、何も解決しない。こういうことになってしまう。政策、施策、運営などで、あることがなされる場合、どうしてそんなことがなされるのか。今回は、「女性限定のPI研究者公募」ということを1つの例として、わがままに議論してみたいと思います。

悲観的になった男性研究者達
10年ほど前から特に若い男性研究者から聞くようになったのですが、「男の研究者はもうだめ。ポストもなければ、放かっておかれるだけ。」博士取得後、ポストドク後にポストがない問題が大きくなるなかで、こういう士気のない感想をあちこちで聞くようになったのです。そこそこの業績があって公募に応募しても、出来レースみたいな形で女性の研究者が優先される。女性だと、少し目立った研究をすると、すぐにポストが見つかるし、学会などのコミュニティからも大切にされるのだと。。これもSTAP問題の背景の1つだと思いますし、科学者コミュニティでは、目立った研究をする女性研究者を積極的に探そうとしているのだと思います。ところが、こういう話というのは、学会などでアンケートを取っても見かけることがありません。それはそういう形の感想が出るようなアンケートを取っていないからでしょうし、そもそもそんな意見が世の中にでてきてしまったら都合が悪いのかもしれません。若い男性研究者は、科学研究もできないし、自分の子供の教育資金もないと。。これは、この10年くらいの男女共同参画の気運や施策のもとで、今回議論するような様々な要因により、大学や研究所などが、若い男性研究者が悲観する方向を目指すようになったということだと思います。

最初に言っておきますが、私は男女共同参画の超積極的な推進派です。しかし、それを推進するための姿勢や方法に疑問を持っています。最近、作家の村上春樹さんが、読者との質疑応答のイベントをやっているのですが、その中で、村上春樹さんのこんな言葉が私の心に響きました。

「僕のまわりの『輝いている』女性たちはみんな、安倍さんに向かって『おまえなんかに、いちいち輝けと言われたくないよ』と言ってます。たしかに余計なお世話ですよね。とくに輝かなくてもいいから、女性が普通に、公平に働ける社会があればいいんです。僕はそう思います。」(村上春樹)
(引用元:http://news.livedoor.com/article/detail/9731016/


女性限定の公募は世界が納得するか?
世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)というのは、日本が誇る科学研究を推進するために作られた組織です。最近、筑波大学のWPIから出されている「Female Principal Investigator」の英語公募がNatureJobsなどに出ていて話題になっていました(下の写真)。

筑波大学のWPIといえば、在米も長かった柳沢正史さんが、リーダーを務める、しっかりとしたものだという認識があったのですが、「Female Principal Investigator」を英語で国際公募するという、このことに様々な賛否があるようです。皆さんは、この公募について、どういう感想をお持ちでしょうか。
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女性限定の公募についての捉え方というのは、いくつかあると思います。日本語で日本国内だけで公募するというケースは、既にこれまでもしばしば見かけたことがありました。一方、英語で国際公募するというのは珍しい。

日本語で国内外の日本人に向けて公募するという場合は、実は、そういうのを受容するという考えを持つ人が多いのです。むしろ「積極的に」やるべきだという意見が多かったりする。こういうのは、例えば、2012年に九州大学の理学部数学科で「女性枠」を設けたというような入学の限定枠(別の表現をすると、「男性排除枠」)を支持する意見と共通点があるのかもしれません。

一方、英語で国際公募という場合、逆に、恥ずかしいという感想を持つ人が多い。それでも敢えて肯定的に捉えるなら、「現状の問題をこういう形で世界に訴えている」のだという考え方をする人がいるようです。ちなみに、私は、こういう公募は「ハラスメント」に相当するのではないか、と個人的には感じます。もっとも好意的に捉えれば、「外国人」を採用するための公募という見方もできますが。

日本語と英語での捉え方の違いがどうして生じるのか。国際的には、人権の観点から「女性限定の公募」が非常識ではないか、と感じる人が多い。ワールドだ、グローバルだ、スーパーグローバルだと言っている日本の大学で、そういうことをやるのは、やはり国際的な人権感覚と相容れないという感想を持つ。一方で、日本語でやる国内公募だと、そうは感じない。日本では、こういう公募を出さざるをえないような悪い状況があるのだと。。つまり、こういうのは、日本という「国」の事情が大きく関わっているということなのだと思います。

表層的な法的議論でいえば、実際、日本の法律でも、「男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」の第5条では、こういう形の公募は禁止されているわけです。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47HO113.html

ところが、同法には、第8条「事業主が、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となつている事情を改善することを目的として女性労働者に関して行う措置を講ずることを妨げるものではない。 」がある。その付随する説明では、「職場に事実上生じている男女間の格差を是正して、男女の均等な機会・待遇を実質的に確保するために、事業主が、女性のみを対象とするまたは女性を有利に取り扱う措置(ポジティブアクション)は、法違反とはなりません」ということになっている。http://www.mhlw.go.jp/general/seido/koyou/danjokintou/aramashi.html 大学などで、女性研究者限定の公募をやったりする人達の議論というのは、こういう法的な説明があるのだと、大抵、そういう表層的な議論で終わってしまうのです。

もちろん、男女の機会均等を前提としたポジティブ・アクション(米国流に言うなら「アファーマティブアクション」)は行われるべきです。これは、米国や欧州の研究者公募でも、「アファーマティブ・アクション」や「機会均等」を付加した公募は常識と言ってもよいと思います。ところが、公募の段階で、「限定」、つまり変えることができない「性」により、別の性を「排除」するというのは、行き過ぎではないか、と多くの人が感じるのではないでしょうか。また、トランスジェンダーの場合は、どうなるのか、という疑問も生じる。でも、日本では、これがわりと広く許容されてしまうわけです。


「Justice」のサンデル教授と考えてみる

この手のポジティブ・アクションやアファーマティブ・アクションについては、様々な議論がある。日本の場合、こういうのは訴訟にまでなったりしないので、議論も深まらないし、「公的」な見解もあまり存在しない。おそらく、それぞれの研究機関は、こういうもの、人事のプロセスについて、マニュアルみたいなものを作って、それを「公開」するべきなのだと思います。

米国では、何でもすぐ訴訟になったりするので、議論は深まっているでしょう。ハーバード大学の前学長で辞任に追い込まれた経済学者サマーズ氏の発言問題などは、記憶に新しいところです。簡単に議論をまとめたものに、ハーバード白熱教室でのマイケル・サンデル教授の授業があります。
「入学資格を議論する」
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/100530.html

http://www.justiceharvard.org/2011/02/episode-09/
(古い授業。最新の授業はEdXで、視聴可能。サンデル教授の本も出ていると思います。)

その中では、3点の議論をしています。


(1)「機会を与える」

少し話がずれますが、日本の教育問題の1つは、都市部、特に東京などと地方、例えば、東北の田舎などとの、教育環境の差があると、私は思います。これは、家庭の所得ということにも関係しているだろうし、指導力のある塾があるとか、参考書を買えるとか、そういうものも関係している。人々に平等なチャンスを与えていない。例えば、これを補正するために、地方に住んでいて、年間所得が低くて、子供が多い場合は、センター試験の点数を加点するというような制度を作ったらどうか、と私は思うのです。つまり、教育環境で、同じ機会を与えていない。これが、このところ流行のトマ・ピケティ理論を連想させる格差の1つであるわけですが。

こういう議論が男女間でどうか、というと、そういう部分というのは、今の日本ではそれほど深刻ではないのではないか、と思います。例えば、女子だからという理由で、塾には通わせない、こういう家庭はそれほど多くはない。もちろん、そういう家庭もあるとは思いますが。特に、大学院まで進学させて、研究者になるようなレベルですと、こういうキャリア形成過程での格差というのはほとんどない、と思います。ましてや、大学、大学院での教育では、男女で違った対応を取るというのはありえない。もしあるとしたら、それは除去しなくてはなりません(例えば、男性だと、チャレンジングで面白い研究テーマを与えるのに、女性だと、手伝いみたいなテーマしか与えない教員がいるとか)。

ですから、研究者の公募において、個々人の過去のキャリアの過程での補正のために、ポジティブ・アクションを行うという理由は存在しないのではないか、というのが私の考えるところです。


(2)「過去の償い」

議論の2点目は、「過去の償い」ということ。これは、個人の過去ではなくて、社会の過去の償いということでしょう。男女差別というのは、歴史的にはどんな文化でも存在していた。それは米国でも、北欧でも、パキスタンでも、そうですし、現実にそういうものが存在しているわけです。過去の事実を、現在の社会が償うことで、補正しようということです。日本の大学などにおいても、過去の差別的な経緯があって、それを現在、「女性限定公募」や「ポジティブ・アクション」を行うことで、償う。それは、社会全体をみれば、そういうことが行われることは納得する人も多いことでしょう。

ところが、この議論の最大の問題は、「なぜ、過去の世代の過ちを、現在やこれからの世代が償わなければならないのか?」ということです。

大学で言えば、現在の大学の執行部が男性優位となっている。ところが、その過去世代のツケを、これから研究者としてのキャリアを築こうとしている若い男性研究者に一方的に押し付けようとしているわけです。若い男性研究者は、力関係で言えば弱いですから、偉い男性がそのパワーを持って、そういうことを強いている。要するに「パワハラ」であるということです。ひどい場合になると、性格の悪い熟年男性研究者が、若手の男性研究者をいじめるために、こういうコンテキストを使ったりすることもあると思います。

日本の場合、これが非常に一方的にそれだけを強いているというのが、問題であると、私は思います。そして、男性優位社会で恩恵を得た過去の世代は、知らん顔で、依然としてプンプンと威張っているわけです。そして、ポジティブ・アクションの結果としての若い世代での女性の活躍は、熟年男性優位な執行部に対する評価となってしまう。過去の過ちによって恩恵を得た世代は、しっかりと自らの過去に向き合って欲しいと思います。

米国などの有力大学の学長が、女性になったりするのは、こういう観点から、過去の世代にも償わせるという意味があるのではないか、と思うのです。日本では、最近も京大や東大の総長などの交替時期になっていますが、依然として、男性総長ばかり。地方の大学などでもそうでしょう。やはり、「なぜ、過去の世代の過ちを、現在やこれからの世代が償わなければならないのか?」という素朴な疑問に、過去の世代が全く応えようとしていない、ということです。戦争などの過去は、大昔のことになってしまい、過去の世代は実際には存在しなくなっている。一方、男女差別などの問題は、過去の過ちによって恩恵を得た世代がまだ活躍しているのにも関わらず、そういう人達は、何も償いをしようとしない。とても変であると思います。 どうせ202030の数値目標を目指すのなら、1年以内に全国の大学の学長の30%を女性にするという極めて具体的な目標を作ったらどうでしょうか。

(3)「目的」

さて、サンデル教授の議論の3つ目は、「目的」、つまりダイバシティーということです。この「目的」というのは、いろいろな観点がある。

米国ですと、医師でも、弁護士でも、マイノリティのコミュニティで働いてくれる人がいないと、困るわけです。ですから、そういうダイバーシティは大学院の入学について、必須なものという議論は納得できるものです。日本でも、地方の医学部などに、地方枠というのがあったりする。これもそういう職業の目的上、そういうことをしなければならない「具体的な目的」があるわけです。ところが、科学研究者の場合、男女、人種、出身地などについて、ごく特殊なケースを除いて、こういう具体的な目的というのは存在しないのではないでしょうか。

科学研究者の場合、具体的な目的というより、抽象的な目的というのは、しばしば議論されると思います。例えば、アイデアに多様性が必要なのだと。。でも、これは抽象的過ぎて説得力がないし、その多様性を生み出すために、研究者の性、国籍、人種、出身地などというのは、1つの因子であっても、研究分野、教育などのキャリアなどの多様性の方がもっと大切でしょう。

日本の場合、人口が少なくなっていくので、そのために、女性や高齢者を働いてもらって、労働力を増やす必要がある。これは、国の事情によるのでしょう。でも、国の経済という金儲けが目的という意味で、その目的は高尚ではないです。あるいは、世界の他の国では女性が活躍しているのに、日本はその度合が低いので、そうするのだ。これも、国の事情によって生じた「目的」ですが、国の名誉みたいなものが目的という意味で、何かちっぽけに聞こえます。更には、人権の立場から、そういう方向を目指す必要があるのだという「目的」。これは多くの人が納得する議論であるので、結局のところ、ここに目的があるというのは議論しやすい。でも、人権というのは、世の中には他にもいろいろあるわけで、なぜ男女共同参画にプライオリティがあるのか、というのは説明が難しいかもしれません。

更に、そうした目的を達成するために、「ロールモデル」を作る必要があるのが目的なのだと。。「目的の目的」。そういう議論もあるでしょう。

女性限定の研究者公募では、その目的が一体どこにあるのか。それを特定して説明できるのでしょうか?

こういう対象を限定する公募で、日本で実施した方が良いと思われるのは、日本国籍以外の人物に限定した公募でしょうか。これですと、英語で授業をやるとか、そういう「具体的な目的」があるわけです。また、欧州では、自国民以外の国籍を持つ研究者に限定した公募や研究費枠というのは、しばしば見かけます。


不誠実な運営を蔓延させるにんじん作戦
女性限定公募を出すような大学というと、筑波大学とか、広島大学とか、そういう中堅大学が多いと思います。この背景には、文科省あたりの顔をうかがって、予算を得よう、予算を減らされないようにしようという「媚び」の姿勢が背景にあるからではないでしょうか。これも、国立大学法人化以降、様々な予算の主導権をめぐって、文科省(更にその上にある財務省)と大学との力関係が変化してきたということが背景にあるのかもしれません。もう少し、文科省に対して強い立場に立てる大学などだと、こういうことはやらないと思います。あるいは、こういう中堅大学のリーダー研究者や事務関係者が、知識に乏しいのか、人権意識が低いのか、国際感覚がすこぶる欠如しているのか。ようするに「自分達のやっていることがよくわかってない」ということもあるかもしれない。つまり、文科省などに対する媚びの姿勢と、知識の欠如や運営センスの貧弱さが結びついて、こういう公募を出してしまうのかもしれません。

もっと言ってしまうと、こういう公募を出すというモーティベーションというのは、「男女共同参画」にあるのではなくて、実はエゴイスティックな「予算獲得」、更には熟年男性中心に運営されている組織の「評価向上」にあるのではないか、ということです。「女性限定のポスト」には、女性を就けておいて、別の普通のポストには、その女性を就ける必要がないので、影でコソコソと自分のコネで男性研究者をポストに就けるとか、陰湿な人事がありそうです。そして、これでは、数値目標を達成して評価を得る熟年男性リーダーが発言力を強めて、偉くなるばかりで、本来の目的とは逆の効果を与えてしまうという可能性もあったりするわけです。旧帝大のような良識的(?)な大学ですと、やはり「ポジティブ・アクション」「雇用機会の均等」などを前面に出した公募は行うが、積極的に排除するような公募はやったりしないでしょう。それでも、こういった大学でさえも、実は「ポジティブ・アクション」を行う動機に「組織全体の予算獲得」「男性中心組織の評価向上」といったものがある可能性があることは指摘しておく必要があると思います。(あるいはそう感じるので、「(2)「過去の償い」」で議論したように、学長を女性にするなどして、その疑いを晴らす必要がある)

この点について、私の提案としては、男女共同参画の推進の目的で、目的外の予算を付けたり、削ったりするような誘導行為を、基本的にやめたらどうか、ということです。数値目標を達成すれば、組織全体に自由に使える予算を付けるとか、結局、金銭を獲得するためには何でもするという人間の心を煽っているようなやり方としか、思えない。文科省や大学、研究所で、議論したり、促進策をまとめるのは、どんどんやればよいのですが、それを実行に移す段階で、予算(運営費やポスト)という「にんじん」をぶら下げるような施策はやめたらどうか、ということです。もし付けるなら、育児施設のような「目的」がそれに完全に限定されたものだけにするべきでしょう。

それでも、心ある運営を行うリーダーならば、予算とは全く無関係に、自腹を切って積極的に推進するのではないでしょうか。例えば、仲のよい熟年男性の同僚のポストを廃棄して、女性研究者のポストを優先するとか。こういうことをやれば、真に正しい心を持った優れた運営をやる人がでてきて、真の目的が追求されるようになるのではないでしょうか。リーダーや運営に真に誠実なこころを育むような施策を行うべきです。これが、私が常々指摘している「愛」に基づく科学研究の組織運営や施策につながるのです。

日本の熟年男性中心の運営組織が、予算などのインセンティブがないと、男性ばかりの組織作りを何も考えずにやってしまうのは、あちこちで見られるのです。何かのメンバーリストを見ると、男性ばかりとか、そういうのは枚挙に暇がない。こういうのは、自分の利益にならなければ、何もやらないという姿勢が根付いてしまっている証拠だと思います。こういう意識を治療しない限り、男女共同参画という本来の目的は達成できません。

そもそも、こんな不純な動機で採用されたら、採用された本人が幸福ではないでしょう。採用する側は、そういう経緯を知っているので、育成したり、協力したりする意欲にも影響を与えそうです。


科学を行う人は誰であるべきか?
どんなことでも、こういう根本のところから、科学研究の政策、大学運営などを考え、議論してみることは大切なことだと思います。日本では、実は、こういう議論が非常に不足しているのではないか。結局、なりゆきにまかせて、本来の目的を忘れたような施策がなされ、施策は心ない人々によって権力や予算獲得に利用されるだけで、根本的なところが解決しないということになってしまう。

さて、サンデル教授の最後の問いかけは、こんなものです。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/100530.html
「古代ギリシアの哲学者アリストテレスの正義論を紹介する。アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと考える。正しい分配をするためには、分配される物の目的を考えなければならないと論じる。最高のフルートは、誰の手に渡るべきだろうか。アリストテレスの答えは、最高のフルート奏者である。すばらしい演奏がなされることが、フルートの目的だからだ。」

科学の目的を考えれば、科学を行う人は誰であるべきか?最高のフルートが与えらるべきなのが最高のフルート奏者であるように、男女関係なく最高の科学者であるべきである。おそらく、頂点の科学は、こうあるべきなのでしょう。日本でも、米国でも、現状がそうなっているのか、というのには、疑問がありますが。。こういうのは、「女性枠」や数値目標の話題とも関係しているでしょう。また、ジェンダーとともに、もう1つの変えられない問題である「年齢差別」や「国籍」の問題とも関係しています。

「最高のフルート」を渡す最高のフルート奏者を探し、最高の演奏をしてもらう。そのためには、評判を聞き、実際に演奏を聞き、待遇を提示し、もてなす。そこでは、年齢も、性別も、国籍も関係ありません。科学者でも、こういう音楽演奏家のように、純粋に活躍の場を提供する。なぜ、科学者の業界は演奏家の業界のようにならないのでしょうか。

一方、「音楽の冗談」で出てくる演奏家のような2流の科学はどうなのか?でも、「2流の科学」って何か?科学ごとに価値の違いが生じているのは何故なのか?「2流の科学」は、誰が行うべきなのか?

結局、こういうのは、答えがない。そういうものです。でも、根本から考え直して議論してみるということが大切だと思うのです。次期科学技術基本計画の議論でも、アリストテレスくらいから議論してみたらどうだろうと思います。
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次回のブログの更新は、2015年3月を予定しています。

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日本国内では、研究者リクルートに関して、コネを利用した人事や、偽装公募、出来レースなど、不透明で不誠実な行為が広く行われています。4月16日の理研CDB副センター長である笹井芳樹氏の記者会見の後、CDBにおける人事の疑問点について、Twitterの方で指摘させていただきました(https://twitter.com/yamagatm3の4/16のツイート参考)。

日本の大学や研究機関における研究者人事において、このような奇妙なことは日常茶飯事であると私は思います。一般論として、なぜ、こうした人をだましたり、隠しごとをするといった不誠実な手法が、研究者リクルートといった組織の運営において行われなければならないのか。なぜ、透明性、公開性のあるリクルートを広く行うことができないのか。これは、日本の学術界、大学や研究所の運営における大きな構造的な問題であると思います。理研CDBにおける問題は、組織におけるガバナンスにも関わっていることから、「科学研究」的な事項とは全く別のこととして、今後、解明、詳細が報告されるべきことであると私は思います。

また、理研BSIのチームリーダーであったThomas Knopfel氏(現、Imperial College London)が、Science誌ウェッブサイトのコメント欄において、理研BSIでの経験を記述していました。その内容は以下です(その後、削除されたようで、現在はScienceのウェッブサイトには残っていません。以下は、4月10日に記録したWeb魚拓のものです。)
http://megalodon.jp/2014-0410-0655-07/comments.sciencemag.org/content/10.1126/science.343.6177.1299

ジャパンタイムズにもKnopfel氏のインタヴューの内容が掲載されています(後半の部分です)。
http://www.japantimes.co.jp/news/2014/04/20/national/stapgate-shows-japan-must-get-back-to-basics-in-science/

テレビインタヴュー:ドイツ人教授「理研は“STAP”以前も改ざんあった」(04/17)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000025285.html

理研は、Knopfel氏の理研BSIにおけるこのような体験についても、その真偽に関わらず、調査し報告するべきであると、私は思います。指摘されることに対して、調査も報告もないというのは、まさに握りつぶしであると判断されることです。

そこで、こういったケースにおいて、どのような調査を行い、報告するか、というのが重要になってきます。ここでは、海外の一流研究機関が、内部の問題にどのような調査を行い、どのような報告書を作製するか、という1つの例を紹介したいと思います。2006年になりますが、理研BSIの現センター長である利根川進氏(MIT)が関わった日本ではあまり報道されなかったのに世界的には広く報道された問題です。この問題について、MITが作製した報告書を一番下にダウンロードできるようにしておきます。組織の中で起きた運営上の問題について、どのように報告するか。利益相反関係などの扱いに注目していただきたいと思います。

「2006年:MIT内の他研究所の教官公募に際して、研究内容が競合しているという理由により、女性研究者に辞退を迫るメールを出したことが問題視され告発された。MITの内部調査は、不適切な内容を認めつつも女性差別の証拠はなかったと報告している。2006年を最後に、ピカウア学習・記憶研究センター所長の職を辞している。」(ウィキペディアより引用)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E6%A0%B9%E5%B7%9D%E9%80%B2

問題の概要と報告書について伝えるネイチャー(ボストン)のブログ
Scathing report about MIT neuroscience released today
http://blogs.nature.com/boston/2006/11/02/scathing-report-about-mit-neuroscience-released-today

これが、MIT内部調査の報告書です。
MITにおける女性研究者リクルート問題の報告書(Pdfファイル)

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