わがまま科学者

米国ボストン在住の神経科学研究者のブログです。科学、教育などに関する雑多な私見、主張。1ヶ月に1度程度の更新予定。Twitter:@yamagatm3   研究者情報:https://about.me/masahito.yamagata/

カテゴリ:科学

バイオ系では、新しく発表された論文を気にするというのは、多くの研究者がそうであると思うのです。それは、大学などの学術機関に所属する研究者もそうでしょうし、民間企業の研究者もそうでしょう。具体的には、どうやるか、というと、こういったところでしょうか。

それぞれのジャーナルを見る。それぞれのジャーナルのアラートe-mailを購読する。Online(Advanced publication)の発表を見るというのも、最近は普通でしょう。
PubMedを時々自分で検索するか、PubMedのアラートシステムを使って、そういう情報を得る。
他人からそういう論文が発表されたことを聞く。
Twitterで追いかける。
一般新聞、研究機関、科学関係のメディアで報道された論文を見る(研究者にはあまり推奨されない方法でしょうが)。

ところが、最近、従来のPubMedでは入手できない新しい論文発表の情報がでてきています。それが、プレプリントサーバに発表された論文です。

プレプリントサーバって何?
最近、米国を中心に、バイオ系でも、物理学分野などでしばしば利用されている「プレプリントサーバ」を利用した研究発表を始めようという議論が盛んになっています。これは、今盛んに推進されているオープンサイエンスの一つであると思うのですが、実際にバイオ系でそれなりの重要な論文がプレプリントサーバに置かれるという形で発表されるようになり、無視できない存在になってきているという現実があります。例えば、最近、科学ニュースサイトで、プレプリントサーバで発表された論文を紹介するというようなケースが増えてきています。

プレプリントサーバとは:Wikipediaより引用。
「プレプリントサーバ(英: pre-print server)は、査読つき学術雑誌に掲載される予定になっている論文原稿を、原稿が完成した時点で一足早く公開する際に使用されるサーバ。学術雑誌における査読と出版には数ヶ月から一年以上もの時間がかかることから、よりスピーディーな情報交換を求めて、インターネットの普及とともに科学分野の研究者を中心にその利用が広まった。」

生命科学分野は「プレプリント」を導入すべき?
https://www.enago.jp/academy/preprint/

バイオ系でもプレプリントサーバの利用を促進しようと議論しているASAPbioというサイト。プレプリントに関する疑問点(例、発表の先取権)や問題点など様々な議論に詳しい。
http://asapbio.org/preprint-info

プレプリントサーバ利用推進の立場から活動を続けているハーバード大学ポスドクのJessica PolkaさんのTwitter。最新の議論を紹介してくれています。
https://twitter.com/jessicapolka

プレプリントサーバについてCell誌の編集長Emilie Marcusさんの議論。従来型の有力誌編集長という保守的な立場からの議論。
Let's talk about preprint servers
http://crosstalk.cell.com/blog/lets-talk-about-preprint-servers

9/5/2016追記。
What we're hearing from the community about preprints
http://crosstalk.cell.com/blog/what-were-hearing-from-the-community-about-preprints
Cell誌も、プレプリントサーバを利用した論文を認めるという方針を決めたようです。


プレプリントサーバをめぐる議論というのは、上に紹介したサイトに書かれていますので、今回は説明を省きます。ただ、現実に、米国NIHがそのグラント申請などにおいて、プレプリントサーバの論文(つまり査読前の論文)をその研究者の経歴書に記載することを許可するといった政府関係の動きもある。そして、eLifeなどの雑誌が、プレプリントサーバの利用を積極的に勧めるという現状があることは見逃せない動きであると思います。

9/5/2016追記。
ここにどの雑誌がプレプリントを認めるか、というリストがあります。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_academic_journals_by_preprint_policy


プレプリントサーバで発表された新着論文情報を得る
そこで、今回は、プレプリントサーバで発表された新着論文の情報をどうやって得るのか、というのをまとめてみました。

米国細胞生物学会ASCBのサイトで、プレプリントサーバの情報をどう得るのか、というので、いくつかの方法を紹介しています。
http://www.ascb.org/fresh-research-delivered-set-preprint-alerts/

Google Scholarを利用するという方法のほかに、こんなサイトがあるということを紹介しています。
PrePubmed
http://www.prepubmed.org/

search.bioPreprint
http://www.hsls.pitt.edu/resources/preprint

また、現在、最も有力なバイオ系のプレプリントサーバの一つであるコールドスプリングハーバーラボのbioRxivのアラートシステムというのもあります。
http://biorxiv.org/content/alertsrss

実際にASCBで紹介されているサイトを試してみたのですが、なかなかうまくいかないようですが。。一方、bioRxivのアラートシステムというのは、良好に稼働しているようです。

もしかしたら、日本国内の保守的なバイオ系の教授や政策策定に関わる官僚の方の多くは、プレプリントサーバって何?という世界かもしれません。是非、こういう情報も使いこなせるようになって欲しいものです。

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日本では、高校から大学の入試改革が、2020年くらいから本格化するということで、そういう議論は盛んに行われています。同世代人口の半数が大学に進学するという時代、大学というのは多くの人にとって身近な話題ですから、関心を持たれやすいのでしょう。

ところが、大学院の入試というと、ほとんど話題にはならない。そして、大学院で行われている教育の問題についても、同様に議論されることが少ないです。そんな折、早稲田大学での博士論文の問題というのが、報道でも大きく取り上げられました。そして、日本の大学院教育のごく一部の問題だけが、議論されました。早稲田大学での事例については様々な見解があるでしょうが、日本の大学院教育の問題について、一般論として深く議論したサイトというのはあまり見かけません。そこで、今回は、この問題について、わがままに論じ、いくつかの提案をしてみたいと思います。

日本は、キャッチアップ型の産業構造の時代を終え、先端産業などでイノベーションを進める社会にならないといけない。こういう時代では、国民全体の知的なレベルを高め、創造的な研究を行うことが重要なのは言うまでもありません。そこで研究人材の育成の場である大学院の教育を、そういう観点から議論してみたいのです。

なお、今回の私の議論は、大学院でも研究系、特にバイオ基礎研究系を想定したものです。例えば、法科大学院や経営大学院などの実務型大学院、いわゆる文系の研究大学院については、私自身よく知りませんし、更に工学系などの技術系の大学院については、当てはまらないという事項も多々あると思います。また、このブログは別のところで書いたものを、修正したので、上から順番に読んでいくと論理的に繋がりにくい部分があります。全体をうまく再編成する時間がないので、雑文の寄せ集めのようになっていますが、言いたいことだけはわかるようになっているとは思います。

目次
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日本は真の「高学歴社会」になっていない
「大学院重点化」に対応できなかった日本の社会
大学院生は増やすべきだ。減らせというのはネガティブ思考なのでは?
「大学院入試」の改革を国の責任で実施せよ
本気でAO入試をやれ
博士前期課程(修士課程)を「廃止」もしくは、修士の位置づけを変更せよ
教育を真面目に行え:論文博士は廃止?
世界基準を満たさない大学院をなんとかせよ
研究指導を考える:「客観的」な指導システムを確立せよ
1)奴隷と無責任の根源は同じ
2)教員層と指導の薄さ
3)客観的な指導システムを導入せよ
4)キャリアパスのプログラムも大切
5)放任主義について
社会との関係を強めよ:大学から大学院入学までのギャップ期間を評価する
授業料を無料にして、給料を出せ(研究系)
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日本は真の「高学歴社会」になっていない

日本では、早稲田大学の大学院の教育、学位審査、そしてそれがもたらした結果について、あのような問題が起きても、結局、議論が深まらない。私は、これは、1つには日本という国が真の「高学歴社会」になっていないから、そういう問題が気にならない人が多いのではないか、と感じています。ここで私が言う「高学歴社会」というのは、いわゆる有名難関大学の学部卒の学歴を持った人が多くいるという社会ではありません。「高学歴社会」というのは、大学卒業後に、更に学歴を積んだ人が多くいる社会ということです。

例えば、新聞記者の学歴がどれくらいのものなのでしょうか。そして、記者になってから、例えば大学院に入り直すような形で更にスキルや知識を磨くようなキャリア形成が多くの記者になされているのでしょうか。科学記事を書いている記者の学歴はどれくらいのものか?文部科学省や財務省などの官僚の学歴がどれくらいのものか?国家公務員一種試験に合格するような頭脳はあっても、研究経験もほとんどないだろうし、そういう経歴のキャリア官僚が中心になって官庁を動かしているのではないでしょうか。時々、海外の大学院(大抵、修士レベル)に数年留学したというような官僚を見かけることがありますが、気軽に留学したという「箔付け」のようなものではないでしょうか。官僚も、自分に大学院で研究した経験がないので、そういうのには疎くて、人ごとみたいな部分があるのではないでしょうか。更には、政治家はどうか?日本の政治家のどれくらいが大学院で学んだことがあるのか。博士の学位を持っている議員はどれくらいいるのか?大臣はどうか?博士を持った大臣はいますか?一般の大衆にしても、大学には関心を持つものの、大学院の教育には関心がない人が大多数でしょう。大学院の教育問題というのは、大部分の記者、官僚、政治家、大衆にとっては、自分達の知らないものであるので、自分の問題として捉えることができないのではないかと思うのです。

ここで、米国や欧州の場合と較べてみたくなるのです。ニューヨーク・タイムズなどの科学記事を書いている記者やサイエンス・ライターは、皆、博士を持っています。官僚の多くもそうだと思います。博士を取ったばかりの人が、ワシントンDCに行くのだと、よくあります。ハーバード大学のケネディスクール(政治の大学院)では、いつも政策の研究をやっていて、政権が替わると、リボルビングドアとして、ワシントンDCに移る博士が多数います。ドイツの大臣が博士論文に剽窃があって問題になったとか。皮肉なことですが、大臣が博士を持っているから、こういう問題が起こるのです。博士ではありませんが、米国で企業の偉い人になろうと思ったら、ビジネススクール(大学院)で学び、MBAを取得することは常識だと思います。また、米国では、日本でも真似して作ってうまくいっていないロースクールだけでなく、医師を養成するメディカル・スクールも大学院です。そして、こういうのを1つだけでなくて、2つも、3つも持っている人もいたりするのです。大学院という高学歴キャリアが社会の中で確立している。つまり、学歴の高い人々が社会を動かす人達が活躍する「高学歴社会」ということになっているわけです。

こうしてみると、日本の国民の世論に影響を与えたり、政策を動かしたりしている人達というのは、米国に較べて「学歴が低い」のです。これが、日本が真の「高学歴社会」ではないということです。出身大学名を競う学歴社会ではなくて、知識や思考力を鍛えた質を競う「高学歴社会」になる必要があると思います。私は、例えば、最低限でも文部科学大臣だけは博士を持った人が就任するべきではないか、と思います。昔、有馬朗人博士が文部大臣をやっていましたが、有馬さんのように、東大総長や理研理事長などを歴任して偉くなってから民間から転身するのではなくて、若手の議員でも博士が増えて、そういう人が入閣する。閣僚の何人かは博士を持っているべきではないでしょうか。政策を深い学術的な知識に基いて判断する力が必要だと思います。そういう状態になれば、日本の政治のあり方というのも、かなり変化してくるのではないか、と私は思うのです。もちろん、政治や行政に「素人」感覚は必要ですが、そればかりでは困るわけです。実際、政策などの国際会議などの場では、日本から出席してくる政治家や官僚の学歴が他国に較べて低いということも、しばしば話題になります。

日本で、もっとやった方がよいと思うのは、日本を「高学歴社会」にする必要があるというキャンペーンだと思います。例えば、リーダー的な地位にある大学学部卒業の人がいたら、その場合、「学歴が不十分」と感じるような社会を目指すということです。そして、意欲とチャンスさえあれば、誰でも、大学院に行けるという仕組みを作ることも大切です。もちろん、米国にもビル・ゲイツのような人もいますし、多様性やアウトライヤーがあっていいのですが、社会全体としては「高学歴社会」を目指すということです。



「大学院重点化」に対応できなかった日本の社会

私が大学院生だったころ(1980年代)と、現在の違いはいくつかあると思うのです。例えば、昔は主要大学の大学院で博士を取れば、 半分くらいは、何だかんだ言っても、アカポスには就けたものです。指導なんていうのも、大学院によっては、かなりいい加減というか、完全放任型のラボも多かったし、授業なんていうのも、「やったことにして、単位がでる」ということだったと思います。それでも、大学院の質はそれなりに保たれていたのです。

こういうのは、余裕があった時代だったということだと思います。こういう時代で育ってきた研究者が現在60才くらいの指導層になっているということで、昔のやり方を続けている。そして、建前ばかりのファカルティ・ディベロップメントのマニュアルと、実態を理解していない文科省官僚の指導の影響で、大学院教育が崩壊してきているのではないか、と思います。

日本の場合、特に大きな変化があったのは、1990年代の「大学院重点化」という施策だったと思います。要するに、教官(当時は公務員だった)を大学の教官から大学院の教官にして、大学院の入学定員を大幅に増加させた。特に、旧帝大のような研究大学が大幅に入学定員を増やしたので、その結果、研究大学の学生の質が変化し始めた。一方、優秀な学生が旧帝大等の大学院に行ってしまう中堅の国公立大学や私立大学の大学院の質が下がってしまった。そして、博士増産体制になって、ポスドクだけは増えたものの、その先のアカポスの数が少なくなった。また、アカポスも不安定な地位であるもの が大幅に増えたということでしょう。その結果、大学院、特に博士課程への進学を躊躇する学生が増えて、大学院の質も変化し、研究者育成の観点でも大きな問題がでてきたのでしょう。

私が思うのは、「大学院重点化」をやっても、日本の社会がそれに対応できなかった、変化できないでいるということです。それは、法科大学院などの事実上の失敗とも関係していると思います。また、メディカルスクールのようなものが、米国のように大学院から始まるというようなものにならず、依然として、18才の大学入試が利用されている。民間企業や官公庁などでも、博士の活躍の場が少ない。こういうのは、結局、既得権益を持った人がいて、社会が変化すると自分達の立場が悪くなってしまうということが、背景にあるのではないか、と思うのです。

ここでも問題は本質を議論できない社会のあり方と、アンシャンレジームや既得権益を捨てることができない人々の姿に、原因を求めることができるのではないでしょうか。


大学院生は増やすべきだ。減らせというのはネガティブ思考なのでは?
昨今、大学院で学位を取得しても、ポスドク後、アカデミックのポストが少ないなど、行き先がないからという理由で、大学院の定員を削減するべきだというような提案があちこちで見られます。つまり、人材の吸収先がないのだから、そういう人材を作らないのがよいのではないか。こういう悲惨な状況があるので、若い人たちが、大学院への進学、特に博士の学位を取得するための進学を躊躇するようになってきており、それが研究の低迷化につながっている。こういう状況分析と意見があるわけです。一般論としては、もっともなことであると思います。

しかし、私は、逆に、今、大学院の定員は現状維持か、むしろ増員するべきではないか、と提案したいです。定員を満たせないのなら、原因を除去し、努力をしないといけないと思います。日本も一昔前は、特に地方では、中学校や高校卒業者が中心になった社会でした。それが、人口の半分くらいが大学に進学する時代になり、以前は多くあった短大もほとんどが4年制の大学になってしまいました。高校の学歴を持った人が大部分を占めていた社会と大卒の人が半分になった社会を較べた時、どちらが、高度な情報や複雑な仕事を行うのに適した社会になったか。これは言うまでもないと思います。社会が発展すれば、高学歴の社会になり、人々の知識やスキル、思考法のベースラインが上がった方がよいに決まっているのです。

こういう点から、私は大学院の定員を削減するべきだという提案は、ネガティブ思考ではないか、と思うのです。前項で書いたように、「高学歴社会」を目指すように、大学卒業で満足している多くの人達に檄を飛ばすべきではないか、と思います。そして、過去の世代が、自分達の立場を守るために、高学歴社会になるのを妨害しているような社会を変換していくべきです。そのためにも、高学歴者が多い方がよいのです。

また、国の立場から言えば、悲惨になる人が出ても、一方でイノベーションが起こる可能性が高まれば、新しい産業が起こり、結果的に多くの人々を助けることになる(功利主義)。イノベーションは、多く打てば当たるという要素があります。そういう人の人数が多い方がチャンスは高まるはずでしょう。高学歴社会にならない原因は、アンシャンレジームや既得権益を捨てることができない過去の価値観で生きている世代の存在にあるのですから、こういう勢力に対抗するような施策を行うか、あるいは新しい博士世代が新しい領域を開いていくという気概が大切ではないでしょうか。



「大学院入試」の改革を国の責任で実施せよ

日本の大学院を改善するためのいくつかの提案をしてみたいと思います。まず、「入試」です。日本では、高校から大学への入試については、多くの議論があって、2020年から始まる新しい入試制度なんていうのも、本当にできるのか、などと、まだ議論しているわけです。ところが、大学院の入試というのは、ほとんど議論されません。

大学院の入試というのは、本当にやっているのでしょうか。大学院重点化前は、結構、真面目にやっていたように思うのですが、定員が増えてから、奴隷が欲しい研究者の欲望にまかせて、その様子が変化してしまったのではないか、と思います。もちろん、一部には難関とも思える大学院もあると思うのですが。。

米国では、一般の大学院、例えば理学研究科などに相当するような大学院に入る場合は、GREとAO入試があります。私は、これを日本でもやったらどうか、と思うのです。ちなみに、GREというのは、およそこういうものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/GRE

つまり、大学院に入るための全国共通の「センター試験」みたいなものを実施するということです。2020年から始まるとされる新しい大学入試ではコンピュー ターでやる方式とか、年に何回でも受験できるというような方式が議論されているようです。ところが、記述式解答の採点の技術的問題とか、あるいはお金持ちが行く中高一貫校みたいな学校の生徒が有利になるとか、言われていて、まだ議論が続いているようです。

でも、大学院の入試でこういうテストを実施するのは、あまり問題がないと思います。極端な場合、完全にマーク方式でよいのではないでしょうか。専門科目も英語の方が良いかもしれません。受験競争の高年齢化を招くなんていう変な議論もでてこないでしょう。逆に、大学院入試をこういう形で実施すれば、大学院入試そのものに価値がでてきて、大学院進学の意欲が向上する可能性もあるのではないか、と思うのです。世の中には、試験や資格を目標にして勉強する人々が多いですから、そういう意欲を煽ることができるのではないか、ということです。現在、大学院の入試問題というのは、それぞれの大学の先生が作製するので、その大学で勉強したことがそのまま出題されたり、自校出身者に有利になるようになっていると思いますが、そういうバイアスも除去することができるし、それぞれの大学の先生が入試問題を作製する雑用も少なくなるのではないでしょうか。

GREの成績を含めて、それぞれの大学院でのAO入試(後述)にすれば、特殊な能力や経験なども参考にできるので、点数だけによらない選抜も容易に行える。1点刻みの点数を競うのではなく、あくまで、おおまかな成績ランキング付けを行う大学院入学資格のための試験のようなものとして活用するということです。

こういう試験を導入すると、学生にとっては、大学での勉強のモティベーションになるだろうし、大学学部の専門教育の質保証にもなるでしょう。そして、大学から大学院に進学する時に、大学とは違う大学院に行くことが促進されるのではないでしょうか。大学院の自校出身者の率を大幅に下げるということです。日本の大学院共通試験として英語で受験することができれば、海外からの受験者も増えると思います。日本国外でも受験できるようにすればよいと思います。文科省の事業として実施できれば、世界各国の主要都市に試験会場を設置したりすることも容易になると思います。

米国では、学部はハーバード大学で、大学院でスタンフォードとか、そういう形で、違うところに行くというのが、典型的なキャリアになっているわけです。例え ば、ハーバードの大学院の場合、ハーバード学部の出身者なんていうのは、1割くらいだと思います(私の感覚です)。違う大学の出身者を混ぜ、外国からの受験者も混ぜ、その中で国際性が高まってくる。こうやって、黒川清さんではないですが、「大相撲化」http://kiyoshikurokawa.com/jp/2006/06/2_71aa.html が起こるのです。また、東京出身の人が地方に行ったりするので、地方の活性化にもつながります。そして、ラボや大学による「囲い込み」が崩れるのです(これについては後述)。

例えば、東京大学の大学院が、入学者の自校出身率を10%にまで下げるということを、AO入試でやったらどうなるでしょうか。それでは困ると東京大学の先生方は主張するでしょうか。大学の序列化というのは、おそらく18才の大学入試で堅固に築かれているのだと思うのですが、大学の序列化の存在は、科学研究に有効なのでしょうか。ノーベル賞受賞者に東京大学出身者が少ないのはどう説明するのでしょうか。

GREのような試験を実施するとなると、どうしても国(文科省)の関与が必要になりますし、大学入試センターのようなものを設置して(あるいは大学入試セ ンターの内部に)、このようなものを実施したらよいと思いますが、いざ実施するとなると、時間がかかるでしょうね。英語では、TOEICやTOEFLのよ うな外部試験を活用している研究科も増えてきていますが、こういうのも費用負担が大きい(受験料が高額)とか、資格試験や大学入試ではなく「大学院入試」に相応しい内容かどうか、というのは議論があると思います。例えば、理工系の大学院入試で、TOEICの点数を提出させるようなものが、本当に大学院入試として正しい評価なのか、私は疑問です。最初は、日本の複数の大学院が共同作業するような形で、このような試験を小規模に開始するというのは可能かもしれません。



本気でAO入試をやれ
そして、GREのような基礎の共通試験と同時に、本気でAO入試をやるというのも、大切であると思います。入試を行う1つの理由は、学力や適性をみるということがあると思いますが、もう1つの大切な理由は、学生にその入試のための準備を通じて、考えさせる、モティベーションを高めるということであると思うのです。ですから、準備をさせることで、それが入学してくる人の教育にもなっているわけです。

学部時代に、1, 2年生からラボに入って、論文を書いて、それが科学雑誌に掲載される。学部卒業後に、テクニシャンのような形でラボで働き、そこで論文を書いて、科学雑誌 に掲載される(こういうキャリアの大切さについては、後述)。こういう積極的な活動が、大学院入試では評価されるべきだと、私は思うのです。現在はどうで しょうか。裏で、あの学生は優秀だということで、いろいろな配慮が行われている可能性はありますが、それが公式に評価されていないと思うのです。高校から 大学への推薦AO入試では、例えば科学オリンピックの国際大会で優秀な成績を修めたとか、そういうことが高く評価されるわけですから、大学院入学前に行っ た活動も、同じように評価されるべきではないでしょうか。

そして、AO入試のためのエッセイを書かせて、それを評価する。これは大したことではないでしょうが、大学生の時、米国の大学に滞在して、短期間ラボで働い て英語力も向上したというような積極性は評価するべきです。例えば、大学生になって、旅行に行って世界各地の動物園に行くことで、動物の多様性への関心を 高めた。世界各地で昆虫採集をした。ボランティアをして医学研究に関心を持つような体験をしたので、基礎生物学の研究を通じて医学に貢献してみたい。こう いうことを、AO入試のエッセイに書かせて、評価するべきでしょう。エッセイを書くには、特別な経験をするとか、強いモティベーションを持つ体験をするというようなことが大切なわけです。こういうものが大学院入試で評価されるということになれば、大学生は、こういうものを積極的に経験するようになります。大学院でも、その後のキャリアでも、こういうモティベーションというのが大切だと思います。 ギャップイヤーや休学を奨励するような人達もいますが、結局、それもモティベーションをどのように作るかという理由なのだと思います。それと、推薦書も、大学の指導教員のような 人、1人だけでは不十分であると思います。

AO大学院入試で、何かスライドショーみたいなことをやらせて、それだけで合否を決定するなんていう怠慢なものでは不十分だと思います。米国の大学院の入試などみていると、GRE、エッセイ、推薦書、更に、2日くらい滞在させて、様々な活動に参加させる。教授と食事するなんていうこともやっているわけです (その食事の費用を大学院が負担する)。短時間の面接だけでは不十分なのではないでしょうか。

つまり、AO入試を、じっくり時間をかけて、本気になってやってみるということが大切ではないでしょうか。入試がいい加減ですと、選ぶ方も選ばれる方も、気持ちがいい加減になるのです。こんなに注意深く選抜したんだから、入学者を援助し、育ててみたいという意欲がでてくるわけです。いい加減に入学させていたのでは、こういう意欲は低くなるのではないでしょうか。

GREとAO入試は米国で行われているわけですが、日本で同様な選抜をきちんとやると、学生もそのために準備する。実は、その準備が、米国などの大学院の選抜の方向と一致しているということになるわけです。日本の大学にすれば不本意かもしれませんが、優秀な大学生が、米国の大学院を目指すということも促進されるのではないでしょうか。



博士前期課程(修士課程)を「廃止」もしくは、修士の位置づけを変更せよ

大学院に進学したら、ラボを選ぶために、ラボのローテーションをやる。米国ですと、1つのラボで3ヶ月くらい、そして3、4つほど回る。つまり、ローテーションに1年をかけるわけです。それぞれのラボに3ヶ月というのは、論文を書けるくらいの結果を出すのは難しいでしょうが、いろいろなラボの雰囲気を知ったり、違う技術やテーマに触れたりするのには、ちょうどよいくらいでしょうか。この1年間の間には、授業も沢山ある。特に、大学の専攻とは違う専攻の大学院に入学したような場合は、こういう授業は有効でしょう。つまり、分野の融合、学際的研究を人材育成として推進することにもつながります。当然、日本でも同じようなことをやったらどうか、と考えたくなるわけです。

ところが、日本の場合、修士(博士前期課程)に入った場合、1年間もこんなことに費やすのは、相当厳しい。特に、修士で大学院を出て、企業などへの就職を考えているような人の場合、1年間これをやったら、M2の最初から所属ラボで研究を開始すると同時に就活が始まる。こんなことしていたら、所属ラボでの研究に集中できない、就活もできない。こういう状態になってしまうわけです。従って、現状では、1年間もラボローテーションを続ける、授業を沢山受けさせるなんていうのは、無理と言ってよいでしょう。でも、最初から博士の取得を考えて、修士は1つのステップにすぎないと考えている院生にとっては、結果的には有意義な期間になるはずです。

米国の場合、大学院に入って、2年くらい経った時点で、いわゆる「クオリファイア」の試験というのがあります。これも大学院によってそれぞれ違うと思うのですのですが、大学院で2年過ごした段階で、本当に博士を取る適性と能力があるか、というのを試すわけです。よくあるのは、自分のやっている研究とは違う、あるテーマについて研究プロポーザルをさせるというような試験だと思います。ここで、失格となりますと、大学院は止めさせるということになります。そして、「修士」の学位が与えられるわけです。この場合、「修士」というのは、博士を取れない「残念賞」であるということです。もちろん、修士と言っても、いろいろあって、MBAのように、それに大きな価値があるというタイプのものも科学分野には存在するでしょうから、全部が「残念賞」というわけではありません。でも、一般に、研究を中心とする大学院の「修士」というのは、残念賞であるというのが現実だと思います。

日本の場合、現状では、修士というのは、企業などにとっては、学部卒より価値があるとされていると思います。特に、工学系などでは、修士が企業には大人気で、そのために修士課程に多くの理工系学生が行きたがる。ところが、修士で終わりで、博士を取る人というのは、かなり少なくなる。こういう傾向は、どんな分野でも多かれ少なかれあるのではないでしょうか。つまり「修士」の方が価値があって、博士になると企業には不要なものなってしまうという奇妙なことになっているわけです。もちろん、アカデミアに残って、教員や研究者というキャリアには博士は必須であるわけですが。。

米国の場合、修士は残念賞で、博士の価値が高い。日本の場合は、修士の人気が高く、博士になると不利になる。これでは、博士を取るというモティベーションが上がるわけがありません。私の提案としては、これを変えなくてはいけないということです。例えば、「修士課程」「博士前期課程」というのを廃止してしまい、「修士」の価値を小さくするようなシステム改革が必要なのではないか、ということです。


教育を真面目に行え:論文博士は廃止?
私が、米国でH1Bビザという労働ビザを取った時ですが、その必要書類の中に大学院での学位取得証明書とは別に、「Transcript」というのがありました。要するに成績証明書ですが、これがなければ、大学院を修了したことにならないというのです。学位証明書とTranscriptは、セットとして提出するものということです。私は、課程博士ですので、日本の大学院に頼んだら、すぐ英語のTranscriptが入手できました。ところが、日本では論文博士というのがあります。この場合は、大学院のTranscriptというのが存在しないというケースがあるのです。この場合は、ビザの取得に必要な書類が集められなくて、苦労するということです。成績証明書というのは、要するに米国の大学院では、授業をやって、単位を出し成績をつけているわけです。

日本の「論文博士」というのは、米国には存在しませんから、そういう概念がありません。博士というのは、博士課程で課程の教育を受けないと取れないのです。また、米国ではいわゆる査読付きオリジナル論文がなくても、博士論文だけで学位が取れたりします。もちろん、査読付き論文や査読付き論文になることが確実な内容を持った研究を、博士論文にするということが大切です。こういうのは、日本でも東京大学の大学院ではやっていると聞いたことがありますが、多くの大学院ではやはり査読付きオリジナル論文がないとだめでしょう。大学院によっては、査読付きオリジナル論文が複数ないとダメとか、そういう「査読付きオリジナル論文」の数に偏重した大学院もあります。こういうのは、逆に、個々の論文の質を高めないので、挑戦的な研究をディスカレッジするという意味で、教育的な効果が低いと思います。

大学院での教育を受けなくても博士になってしまう、つまり世界基準になっていない論文博士というのは、以前から止めようという議論が日本であるようですが、なくならないようです。そういうのが必要な人がいるということなのでしょうか。



世界基準を満たさない大学院をなんとかせよ

11月初めに早稲田大学の博士論文の問題が報道されて、話題になっていました。私が思うのは、早大は公開の学位公聴会みたいなものをやり直し、学位審査会をやるべきではなかったと思うのです。学内で、公開セミナーみたいなものをやらせてみたらよかったのではないか、と思うのです。早大の学位公聴会というか、いわゆるThesis Defenceが通常どのようになされているのかは知りませんが、確か、そういうものがあったと、報道でみたことがあります。本来は、学外者も含めて、学位公聴会をやった方がよいと思いますが、このケースの場合は混乱が予想されるので、参加者を限定して閉じたものにするのはやむを得ないでしょう。それでも、例えば、学科の構成員には教員、学生など含めて参加させて、自由に質問をさせてみたらよいのでは。。科学研究として成立するのか、そういうプロセスを厳密に確認したらよいのです。やはり、内部で勝手に決めてしまうのではなく、透明性を高めるということが必要でしょう。あるいは、学位取得者の不名誉な行為が理由で、学位を認めないのなら、そういう規定を学位規定に設置するべきなのだと思います。基本的には、早稲田大学の態度というのは、もう問題を掘り下げたくない。静かにして、形ばかりのガイドラインの公表で、お茶を濁したいということなのでしょうが。。

名目上は、学位を出すか、出さないか、の判断は、学位論文だけで決まるものではないでしょう。もちろん、それは前提ですが。。そもそも、米国の大学院では普通にある、個々の院生の教育機能を担う「Thesis Committee(学位論文委員会)」(後述)みたいなものが存在しないというところが問題であると思うのです。それは、早稲田大学が去年の10月に公表した「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」なるものにも、全く書かれていません。
http://www.waseda.jp/top/information/14763

これも、やはり大学院教育のあり方が世界基準になっていないということの一例だと思うのです。早稲田大学の大学院の事情をよく知るある方によれば、早稲田大学の大学院では、プレゼンのような何かを売り込むためのビジネスのような教育はしっかりやっているが、批判的に物事をみる科学的な訓練が不足している。例えば、ポスター発表では、美しく見た目のよいポスターを作ってくるのだが、その内容をよく見るとコントロールが取られていないとか、研究の基本ができていないものが多いということでした(どこかで聞いたような話です)。おそらく、こういう問題は、早稲田大学だけでなく、日本の多くの大学院でも似たような状況があると思います。是非、この機会にもっと議論を深めてほしいと思います。



研究指導を考える:「客観的」な指導システムを確立せよ

大学院での教育のあり方について、これから議論するのは、大学院という「組織」での教育、研究指導の「客観性」の観点、そしてキャリアパスを考慮した教育、そして当たり前なのですが、「教育せよ」ということなのだと思うのです。要するに、ある研究者の奴隷のように大学院生を扱ったらダメということです。大学院生は、ラボのテクニシャンではありません。大切なのは、個人の力を最大限伸ばすための教育を行うということです。それが、イノベーションを生み出す人材育成につながります。ここでは、早稲田大学の「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」を引用し、議論してみたいと思います。


1)奴隷と無責任の根源は同じ
早稲田大学「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」
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研究指導体制
(a)より質の高い研究者を育成する研究指導体制の再構築
(1) 副指導教員を置く。副指導教員の選任の時期および人数等については各研究科にて決定する。
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この大学院では、指導教員が1人のみだったのでしょうか。今更のように、副指導教員を置くと言っています。こういうのは、特定の大学院生をある指導教員だけの所属とするシステムの存在があるのだと思います。一見、TWinsのプログラムやハーバードなど外部に出しているように見えても、結局、特定の指導教員が、その大学院生を担当していたという実態の存在です。そして、ゆるい責任体制のあり方。実は、こういう体制は、日本全国にどこでもあるような感じになっているのでしょうね。日本では、大学院生というのは、ある研究室の持ち物(既得権のような所属概念、戦力、奴隷)のようになっていて、大学院、研究科として育成しようという意識が希薄なのです。

こういう問題意識というのは、おそらく日本の大学だけにいて、ずっと過ごしていても気づきにくいと思います。当たり前だと思ってしまっているからです。また、米国で2,3年とか、短期間、ラボで働いていても気づきにくい。要するに、日本の社会を、外部の目で客観的に見れるようになると気づくことだと思うのです。前述した大学院入試などでも、例えば入試前から、入りたいラボが決まっていて、そういうのを前提として、入学させるというのが、日本では多いと思います。そのラボが、大学の学部の時にいたのと、同じラボであるというケースもまた多いでしょう。

日本でもやっているところはあると思うのですが、大学院に入学すると、複数のラボを、1つのラボあたり数ヶ月、ローテーションさせて、大学院の研究を行う 所属ラボを決定していく。こういうのは、米国では当たり前だと思うのですが、日本では当たり前でないという研究科も多いのではないでしょうか。

つまり、入学前から、大学院生がある特定のラボの持ち物になってしまっている、ということだと思うのです。こういうことがあると、結局、ある特定教員(教授)の持ち物として、その人に絶対服従するという奴隷化が起こりやすい。もちろん、そういう特定教員にも、人柄が良いとか、理解があるという人もいるでしょう。ところが、その場合は、時に「無責任」ということになってしまう。早大の教授の場合は、そういうことなのか、と私は判断しています。 つまり、懲罰された教授というのは、ある意味で人柄がよくて、自分のところで学部の研究をやった院生を、その院生の希望をよく聞いて、外に出して、自分の専門分野とは異なる内容の学位まで面倒をみてやったということなのではないでしょうか。同じ研究科でも、こういう特定教員1人だけに、大学院生をまかせ、組織としての育成の意識が不足しているので、他人として注意を払わない。その結果、無責任さ、いい加減さが生まれたということです。

ある場合は、教授に服従する奴隷のような大学院生になるし、別のケースでは「理解あって人柄のよい教授」が無責任指導をする大学院生になる。一見、全く逆の状況を作りだしてしまうのですが、根源的な原因は同じなのだと思うのです。つまり、大学院生がある教授の「持ち物」になっていて、研究科として育成、教育しようという意識に欠けているということなのです。

この問題というのは、こんな場所でも同じように議論されていました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1335428.htm
「医療系大学院における教育・研究指導には、これまで、ややもすると大学院学生が所属する各研究室の指導教員に教育を任せきりにするという傾向も見られた。 しかしながら、先に示したように大学院の目的と教育内容を明確にし、教育・研究指導を実効性あるものにするためには、専攻単位で組織的に教育活動を計画す ることが重要である。」(2.課程制大学院の趣旨に沿った教育課程や研究指導の確立について(1)教育・研究指導の在り方について)

研究科や専攻科が、大学院生を育てるという意識が希薄である。こういうのは、研究科、更には、大学、そして文科省にまで行き着いてしまう問題である。一方で、指導教官となる個々の指導教員にも、そういう意識を持つことが求められるということだと思います。


2)教員層と指導の薄さ
早稲田大学「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」
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(b)研究指導を行う教員の専門領域と、指導を受ける大学院生の研究領域の適合性の確認
(1) 大学院生の研究領域と指導教員の専門領域との適合性を確認する。
(2) 外部の研究機関に研究指導の一部を委託する場合の責任を明確化する。「本学以外の研究機関に大学院生を預けて、研究指導の一部を依頼する委託研究指導」においては、研究指導の役割分担と責任体制について、機関間および外部研究者と本学指導教員との間で予め明確に取り決めることが必要である。この場合、研究科運営委員会または専攻会議の事前の承認を要する。
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1つの大学における教員層の薄さ。有名大学でも、大学院生がやりたい研究領域を提供できない。その結果、連携大学院みたいなシステムができる。研究所などは、大学院生の力(奴隷?)を必要な研究者が多いので、しばしば行われます。しかし、こうした連携には、責任意識が希薄な場合が多いです。私が気づいたのは、理研BSIと早稲田大学の連携の例です。STAP問題が起こった当初、理研BSIは、そのホームページで、早稲田大学との連携の記述を、突然、ホームページから削除していました。何か、「やばさ」があるのではと、勘ぐったりしています。

なぜ、日本の大学は教員層が薄いのでしょうか。これは、講座制みたいなものがあって、異なる研究をやっているような教員が少なくなってしまう。つまり、違った研究をやっているラボの数が少ないから、そうなってしまうのだと思います。今は法的根拠のなくなった「講座制」やそれに似たシステムというのは、1つの研究組織(研究科)の研究内容の多様性を減少させ、類似の研究内容の研究者を一箇所に集中させてしまう。そのために、ある1つの大学の大学院に多様な分野の教員を配置できないということになっているのではないでしょうか。そのために、1つの大学院だけでは、大学院生を第3者の目で指導するような仕組みをうまく提供できなくなっているのではないか、と思うのです。講座制のような仕組みと大学院生指導の仕組みをどうするのか、というのは、今一度、議論してみる必要があるのではないかと思います。

もちろん、私立大学など、教員数が少なすぎということもあるでしょう。早稲田大学を含め、日本の私立大学の理系学部というのは、学部教育もマスプロ教育になっていたり、そういう雰囲気が大学院にも蔓延している。これはやはり問題なのでしょうね。

日本の大学院の場合、旧帝大でも、ラボあたり、あるいは教員1人あたりの院生の数が、米国に較べてかなり多いのではないか、という印象を持っています(最近は、院生そのものの数が少なくなって、不本意にも状況が改善されているのかもしれません)。統計的な資料を見たことがないので事実かどうかは不明ですが、米国のラボというのは、いわゆる有力ラボでも、ラボのメンバーの数というのは、非常に少ないのです。そういう密な指導の中で大学院生を育てるということも大切だと思います。




3)客観的な指導システムを導入せよ

早稲田大学「博士学位および博士学位論文の質向上のためのガイドライン」
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(c)指導教員の交代を柔軟に行える制度の整備
(1) 必要な場合には、指導教員を交代させる制度を設ける。
() アカデミック/パワー/セクシャル・ハラスメントの疑いがある場合
() 学生の研究領域と指導教員の専門領域とのズレが大きくなった場合
() その他、指導教員を変更することが必要または妥当と研究科が判断する場合
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科学研究とは、主観的なものです。こういうテーマで研究をやるというのも主観的なものですし、こういう論文を書くというのも主観的なものであるわけです。日本の大学院の指導というのは、どうもこの「主観的」な指導だけに傾きすぎているのではないか、と思うのです。こう言っても、なかなか具体的にイメージしにくいと思いますが。。

例えば、指導教員が科学的な仮説を持っているとする。こういう実験をやれば、こういう結果がでるはずだ。そういう指導のもとで、大学院生が研究をやるわけです。場合によっては、そういう結果がでるまでやらせる。でなければ、その大学院生が無能だからということになる。あるいは、ラボの昔のメンバーがやった 研究を更に進めるために、ある実験をやらせる。ところが、その大学院生がやると、再現できない。こういう状況では、科学研究というのが指導教官の主観になっていて、客観的に大学院生の指導ができないような状態になっているわけです。

米国だと、こういうことはよくあったのでしょうね。指導に「客観性」がないと、院生の教育がうまくいかないということになったのだと思います。その1つの解決策が、院生個人ごとにThesis Committee(学位論文委員会)を作らせるというようなことでしょう。基本的には、院生1人ごとに、専門分野が関係する教員数人を選んで、年に1,2回、進捗状況を議論するというようなものです。例えば、ハーバードくらいになると、院生1人の委員会に、世界的権威が何人も入るというような恵まれた指導体制ができます。これも、いろいろな形態があると思うのですが、日本でもやるのは可能であるということで、そのひとつが、遺伝研で行われているという広海健さんがプリンストン大学での経験から持ち込んだシステムであると思うのです。

遺伝研の記述
http://www.nig.ac.jp/nig/ja/phd-program/main-page-top/whats-so-good-about-nig
「研究の客観性を高めるためには、所属研究室の指導教員とは別の教員と議論することも重要です。このような機会を生むべく、遺伝学専攻では複数教員が指導 に 参加するユニークな「プログレスレポート制度」を導入しています。この制度は、各々の学生が選んだ4人の教員が、所属研究室の指導教員を交えないプログレス委員会を組織して、研究の客観的な助言を行います。その他、所内ポスター発表会やリトリートなどのイベントも多数企画されており、所内のあらゆる教員や 研究者と議論する機会があります。」

また、専門分野が近いと、どうしても利益相反関係や何らかの人間関係が存在しやすいということがあります。米国の大学だと、更に、まったく違う分野のメンタリングのシステムがあったりする。例えば、動物の研究をしている院生が、研究上の利益相反関係のない植物科学の教員を選び、客観的なメンターとなってもらう。これは、パワハラ、アカハラなどのケースには有効に機能するでしょうね。実は、こういう「客観」的なメンタリングシステムというのは、ポスドクやジュニアファカルティの育成でも重要なポイントだと思います。

個人ごとの学位論文委員会とか、ラボローテーションとか、そういうのは、日本でもやっているところはあるのです。つまり、こういうのは「やろうとすればやることはできる」。ところが「やらない」「やりたくない」というような大学院があるということでしょう。つまり、「やったら都合が悪い」大学院がある、そういう研究者がいるということなのかもしれません。単に面倒だけというのが理由でしたら、教育の熱意に欠けていると思います。(別の社会的な理由は「博士前期課程(修士課程)を「廃止」もしくは、修士の位置づけを変更せよ」でも議論しました。)

例えば、院生をラボや教授の持ち物にしたいという欲望が強い教員が集まれば、「囲い込み」をやりたくなる。そして、自分以外の他所のラボで研究を体験させたら、比べられるということになって困る。場合によっては、逃げられてしまうかもしれないし。比べられたら困るなんていうのは、余程、自分達に自信がないのか、あるいは自分達のパワハラ的ラボ環境を知られたら困るのか。あるいは、サイエンス的に非常にマイナー分野で、何としても人材を確保したいというそういう教員もいるでしょうか。

学位論文委員会など作れば、自分のラボの院生がどんなことをやっているのかバレてしまう。他人のアドバイスを自分の院生に受けさせるなんていうのは耐えられない教員がいる。こういうのは、教育より、自分の研究を進めるための戦力として院生を使っているからなのかもしれません。確かに、日本も昔は院生というのは研究の戦力であって、そういう位置づけがされてきたのです。ところが、今や、ポスドクが溢れているような時代。院生というのは、戦力というより、教育の対象として育成する方向に意識を変えた方がよいでしょうね。少なくとも、ポスドクが多い一流大学院のラボでは、そうあるべきなのだと思います。もちろん、研究そのものが、最大の教育として、教育効果が高いわけですが。。院生に優れた教育を行えば、それが優秀なポスドクになり、他所のラボで活躍できるようになる。こういう教育者としての器が必要でしょう。

例えば、院生に与えるテーマでも、1つの手技だけを使って、ラボの中での部品の1つとして使うような極端な一芸研究をさせるようなラボ(「ピペド」院生)はダメでしょう。科学的な思考能力を磨けるような教育を行うべきですし、多様な体験を重視した方が、人材の育成には利点が多いと思います。意識的に多様な研究手法や思考法に触れさせる。例えば、免疫沈殿とウェスタンだけの論文を作製して、そこそこインパクトファクターの高い雑誌に1報だけ発表した学位取得者Aさん。様々な手法を用いた論文を仕上げて、更にラボ内の共同研究として違った感じの手法や分野の論文を仕上げる研究に加わった学位取得者Bさん。その後の研究者としての人生が、どちらが豊かになるのでしょうか。これは考え方にもよると思いますが。。



4)キャリアパスのプログラムも大切

大学院で博士を取っても、企業などでの就職先がない。私くらいの世代ですと、博士取得者の半分くらいは、何だかんだ言っても、いわゆるパーマネントなアカ ポスに就けたものです。もちろん、一生、助手みたいな形で終わるような人もいるし、研究というより、底辺大学での教員みたいな形になってしまった人もいま すが、それはそれでチャンスは与えられたのですし、そういう形で終わっても、まあ納得はできるという時代だったと思います。現在は、博士を取っても、出発 点にも立てないような人も結構いたりします。

現在の就職難の問題は、1つには、大学院での指導が不十分、あるいは不適切であったケースが多いのではないでしょうか。例えば、非常に特殊な技術だけを取得しても、そんなのは企業では役立たない。大学院のラボで戦力として使われてしまったために、十分なトレーニングができなくて、視野が狭くなってしまう。また、研究科では、大学院としての院生のキャリア教育の取り組みが不十分でキャリア形成ができない。

教員でも、自分のラボの大学院生が、自分のラボの研究活動以外の活動に参加したりするのを、そんなのは時間の無駄だとして、すごく嫌がる人がいると思います。例えば、キャリア形成のための催しみたいな行事に参加したりするのをディスカレッジするとか。また、ティーチング・アシスタントみたいのは、本来、大学生などを、本当に教育しなくてはいけない。米国では、ティーチング・アシスタントというのは、放課後に大学生に対して課外授業(教育経験)をやったりしていますが。。

つまり、大学院生がラボの持ち物になっているために、こういう「余分」な活動をさせないようにするという感じになっているのが、日本の大学院だと思うのです。その結果、視野が狭くなったり、キャリアのための取り組みが不十分になり、特殊な研究以外では使えないような博士を作っているのでしょうね。

こんなのは、大学院を悪くして、人気を低下させることで、大学院博士課程への進学者を減少させ、教員が自らの首を自分で絞めているようなものだと思うのです。キャリアパスのためのプログラムを重視するというのは大切であると思います。


5)放任主義について
ここで、敢えて研究指導のあり方として、放任主義というのを議論しておきたいと思います。放任主義というのは、研究指導の1つのやり方として、意図的にやっている教員も多いと思います。わかっていて意図的にやっているというのはよいと思います。問題は、それが放任主義というより、何も感じない、気づいていない教員がいるということなのかもしれません。

日本でも、いわゆるエリート的な大学院、例えば旧帝大のトップラボくらいですと、放任主義みたいなラボで成功している例も沢山あると思います。例えば、「大沢牧場」(大沢文夫氏のラボ)といわれた放牧型のラボとか。逆に、「伝説の沼研」のように、管理を徹底的に行うようなタイプもあるでしょうね。そ れぞれにメリットがあるでしょうし、そういう方針であることを知って、ラボを選べるような状態になっていれば、それはそれでよいことなのだと思います。逆 に、それぞれのタイプに合わないという個人もいるでしょうから、そういう場合は変更できる。そして、合わないと変更したからといって、後のキャリアでそれ がマイナスにならないということなら、全く問題はないと思います。

名大、阪大などで活躍し、そのラボが「大沢牧場」とも呼ばれた大沢文夫先生について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E6%96%87%E5%A4%AB
https://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no49/

1992年に亡くなったが、2015年になっても伝説となっている沼正作先生(雑誌「化学」に連載)
http://www.kagakudojin.co.jp/kagaku/web-kagaku01/c07007/c07007-kakidani/HTML/list1.html

一方で、地方大学や私立大学の大学院というのは、こういう旧帝大の大学院とはやや違う状況があるのではないか、と 思うのです。つまり、放任主義だと、教育そのものが崩壊してしまうので、かなり管理主義を強めないと、質が保たれないというような現状があるのではない か、と思うのです。米国でも、いわゆる地方大学というのがあり、そういう大学院では、卒業生の質を保とうとして非常に努力をしている。つまり、質の高い卒業生を送り出すことが、その大学院の評価になるという意識が非常に高いのです。日本の場合、地方大学の大学院が、旧帝大の大学院に負けじと、その卒業生の質を高めようという努力をどれくらいしているのか。ここが非常に大切であると思います。

朝日新聞のサイトに、杉浦由美子さんという方が教育問題についての論説を書いています。私はこの杉浦さんという方を知りませんが、現実を肯定し、それでどう生きていくか、という現実重視の論説を書いている。私は、逆に現実を否定して、それを変えようという立場ですので、考え方のギャップは大きいのですが、 そういう立場もあるという頭の体操に論説を見ています。その中で、こんな文章を見かけました。

なぜ小保方氏は「不公平」と批判するのか(上)
早稲田大の博士号取り消し 論文再提出の過程でもプリンセス扱いだったのに  杉浦由美子
http://webronza.asahi.com/national/articles/2015110500011.html
 「早稲田は全体的に放任主義で、大学院でもちゃんとした指導がされているとは思えない。特に理系は実験や実習の指導が必要ですが、それができる体制になっていないのでは。必然的におきた騒動だったと思います」(大学関係者)
「放任主義はデメリットもあるが、学生の自主自律を促すメリットもある。今回の不祥事をうけ、早稲田は、2006年以降に学内で博士号が授与された 2789本の論文をすべて見直すという作業をした。教員たちの負担はかなり大きかったときく。結果、2789本中89本からコピペ的な不正が見つかった (そのうち、48本は修正して、再提出させた)。つまり、不正が見つかったのは3%で、ほとんどの学生はちゃんとルールを守って、きちんと論文を書いてい るのだ。」

確かに、ほとんどの学生はきちんと論文を書いているかもしれませんが、不正?が見つかったのが3%もあるというのは問題でしょうね。おそらく、ほとんどがコピペ、剽窃の類だと思いますが。しかも、自主点検では、厳しく確認したというわけでもないでしょうから、見過ごした、見つけたけど微妙だったので良しとしたというようなものもあるのではないでしょうか。

早稲田のあのケースの場合、主査の専門が違う分野であるし、副査が外部の人であったり、名前だけ貸した外国人とか、そういう体制に問題があったわけでしょ う。しかも、剽窃というのは、その気で見つけようとしないと見つけることは難しいでしょう。まさに、問題が起こるような体制であったということです。

これが、学位審査委員会みたいなものを作って、客観的にそのプログレスを、共同研究者ではない専門領域の研究者の目で見ていたら、そういうのが起こらな かったのか、どうか、というのはわかりません。実際、あのケースの場合、剽窃を見つけようとしたから、大規模な剽窃が見つかったというわけです。おそらく STAP論文など出さずに、静かに研究をしていただけなら、発見されなかったのではないでしょうか。例えば、指導教員が責任を持って、一緒に研究しているという感じになっていたのなら、どこかで気づくこともできたのでしょうか。改めて、京大の佐々教授が表現した「夢の世界の住人」というブログを思い出します。
http://d.hatena.ne.jp/sasa3341/20140311



社会との関係を強めよ:大学から大学院入学までのギャップ期間を評価する

日本の大学院というのは、基本的に、学部卒業後、すぐに大学院に進学するというのが多数派で、それが基本になっていると思います。たまに学部卒業後、企業などに就職して、その後、辞めたりして、大学院に入ってくる人もいる。また、企業から大学院に派遣されてくるような人もいるでしょう。でも、こういう人達というのは、稀で、特殊な例であるわけです。

平均年齢38歳、ハーバード生の「頭の中」 なぜ彼らはキャリア半ばでやってくるのか?
http://toyokeizai.net/articles/-/88416

この記事に、政策学の大学院であるハーバードケネディスクールのケースがでていますが、こういうのは、MBAの取得をするビジネススクールでも同じだと思います。つまり、既に、社会経験豊富な人が集まってくる。理系でも、学部卒業後、何年か、企業や大学のラボでテクニシャンとして働いて、大学院に入学してくる人が多い。米国の大学ですと、大学卒業後、何故か、どこかの国に行ってしまうような人もいたりします。こういうのは、大学と大学院の間で行うギャップイヤーみたいなものだと思うのです。

最近、大学の秋入学などの制度とともに話題になる高校生から大学に入学するまでの期間のギャップイヤーいうのは、高卒後の「体験」的な要素が強いと思います。例えば、海外に出てみる、ボランティアをしてみるといったことで、自分探しをするという類の「体験」です。もちろん、こういうものも大切であると思います。また、大学を途中で休学して、同じような体験をしてみるというようなことも推奨する人達がいます。欧米では盛んに行われていると思います。

大学から大学院入学までのギャップ期間というのは、少し違うと思います。高校卒業後のギャップイヤーのような体験的な要素より、実務的なキャリアパスの意味がでてくる。ここが大切だと思うんです。大学卒業後、例えば、企業で働く、官公庁で働く、アカデミアでテクニシャンとして働くといった経験をしてきた人が入ることで、大学院生の質が多様になり、社会とのつながりができる。例えば、そういう人がラボにいれば、そういう経験のなかった院生への教育効果もあるわけです。そして、現在より、2,3年遅らせて、30才くらいで「博士」を取得することを標準にすればよい。もちろん、分野によっては、2,3年早く博士を取得するというのもあってよいと思います。また、博士を2つの分野で取得する、MBAと博士を取るなんていうのも、もっとあってよいと思います(私も、若くて、時間と経済的な余裕があればやってみたいです)。

でも、休学とか、ギャップイヤーとか、そういう空白の期間を作るのを、日本の社会はすごく嫌うというところはないでしょうか。履歴書に空白ができるとか、企業を辞めるのが経歴上の傷になるとか。こういう外れた経歴があったりすると、後になって「罰」を受けるような評価をされたりすることはないでしょうか。更には、年齢が高くなると、いろいろな制限にかかるようになる。例えば、こういうのは、奨学金とか、研究費まで関係していると思います。純粋に学術的な公募の募集で、年齢制限みたいなものを設定するのは、やはり年齢差別でしょう。こういうのは止めるべきだと思います。

それと、日本の学術界を見ていて思うのは、生み出している人材の数が、社会の求める人材の数とは乖離していることがあるのではないか、と思うのです。有力大学が、特定の研究者のラボを巨大化させて、特定の分野の人材ばかり生み出しているという印象があります。ラボを巨大化させるというのは、結局、研究費の集中が起こっているからでしょうが、その研究費の集中と大学院生の数が単純に比例していてよいのか、と感じたりするのです。巨大化したラボの関係者は、こういう部分にも注意を払い、自分のテーマでも適切な人材を生み出すように努力するべきではないでしょうか。ここでも、院生を安易に「戦力」として使ってしまうという指導(日本の前世紀型指導)を考えなおしてみる必要があるということです。

追記(11/16/2015):たまたまこういう河合塾のサイトを見つけました。今回の議論と関連する話題や施策についての情報が掲載されているようです。

「理工系人材育成に関する産学官円卓会議」報告



授業料を無料にして、給料を出せ(研究系)

最後ですが、日本の研究系大学院は、授業料を無料にして、大学院生全員がそれだけで生活できるくらいの給料を出す方策を考えるべきです。これができると、いろいろな問題を解決することができると思います。そもそもこれをやらないと、日本の研究系の大学院は、欧米の大学院には全く太刀打ちできません。

では、その財源をどこから出すのか?これについては、次回考えてみたいと思います。

IMG_0248

写真は、ハーバード大学の大学院Graduate School of Arts and Sciencesの学生センターとなっているDudley House
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次回のブログの更新は、2015年12月を予定しています。

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2015年度のノーベル生理学・医学賞は、北里大特別栄誉教授の大村智博士ら3名に授与されることになりました。メディアでも沢山報道されているように、多くの人々を救ったという功績、大村博士の様々な人柄、美術や教育についての思いが感動を呼んでいると思うのです。私も、そのようなメディアの報道を見て感動しました。日本では、千円札の野口英世博士が、献身的な努力で医学的貢献をし、今なお、大きな尊敬を集めています。おそらく、50年くらい経つと、大村博士はお札の人物になるかもしれません。今回は、断想として、少し感じたことを書いてみたいと思います。いつものようにネガティブな視点からポジティブなものを導き出そうとするわがまま論議です。

対 再生医療(少数のお金持ちのための医療)

日本でも米国でも先進国では、再生医療というのが、先端医学の研究内容として注目されて、多くの研究費と人材がつぎ込まれてきています。結局、こういうのはお金持ちの国の少数のお金持ちのための医療研究なのだと、改めて実感しました。視覚障害の治療と言うと、ノーベル賞発表の前後に、神戸での網膜のiPS細胞を使った再生医療の臨床研究、英国でのES細胞を用いた網膜の再生医療(BBCの報道)、あるいは米国での網膜への遺伝子導入による治療(SPK-RPE65)などの報道が行われていたわけです。もちろん、再生医療や遺伝子治療の対象となっている視覚障害の原因は、寄生虫によって生じるオンコセルカ症(河川盲目症)で失明等の視覚障害が生じるものとは違います。そして、再生医療も遺伝子治療も未来の医療としては大切であるわけですが、現状としては、極めて少人数の患者さんを対象にしたものに過ぎないということがあるわけです。しかも、その治療効果も劇的というわけではない。こういうものと較べた場合、寄生虫により世界で年間2-3億もの人々が抱えていた失明の危機(世界の感染者数は約1800万人、失明者は27万人)、1年に1回服用するだけで劇的な効果があるというイベルメクチンという薬の作製というのはやはり意義が大きいのは、その恩恵に預かる人数から言えば明確です。

そういう意味で、先端医学研究の対象となる再生医療というのが、どういうものなのか?功利主義という倫理に基いて考えた場合、どこに研究費を配分するべきなのか、というのを改めて考えさせる受賞であったと思います。この受賞が、「格差問題」を示唆しているとか、WHOの「顧みられない熱帯病」への取り組みを意味しているとか、そういうことなのですが、それぞれ西川伸一さんや榎木英介さんが既に書いておられましたので、改めて書く必要もないでしょう。

2015年ノーベル医学生理学賞受賞理由:格差問題解決の科学への期待 (西川伸一)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nishikawashinichi/20151006-00050181/

大村智教授に医学生理学賞の理由 ノーベル賞委員会が秘めた意味(榎木英介)
http://scienceportal.jst.go.jp/columns/opinion/20151013_01.html

かつて、ホンダの創業者である本田宗一郎氏は、「国の補助で事業をやって成功したためしはない」と言っていました。すべてがそうでないにしても、実際、そういう傾向はあるのだと思います。大村博士の受賞対象となった研究は、文科省の科学研究費補助金(科研費)などによってなされたものではなく、メルクとの契約により、多額の研究費を得て行われてきたということです。結局、科研費などを貰う必要もなかったということになったということだと思います。日本の公的研究費は、基本的に北里大学のような私立大学に所属する研究者にはあまり回らずに、東京大学の有名な研究者にお金が優先的に回るようになっているような現状というのが今も昔もあるわけです。文科省は、こういう研究をほとんどサポートできなかった理由について、少し調査してみる必要があるのではないか、ということです。なお、大村博士の最近の科研費の状況がここで見れますが、もう少し昔のものも見てみたいです。
https://kaken.nii.ac.jp/d/r/90050426.ja.html


大村智博士は何をやったのか:きっかけ、汗、ユーレカの瞬間
野口英世博士については伝記が多く書かれ、賞なども設立されてきました。一方、渡辺淳一の小説「遠き落日」で描かれたような人生や、その後の科学研究の進展による再評価の結果、その人柄や功績についての疑問が投げかけられているのは、よく知られているとおりです。ノーベル生理学・医学賞の受賞内容では、ロボトミー(Egas Moniz、1949年)、農薬DDT(Paul Hermann Muller、1948年)のように、当初は画期的だと評価されながら、後に否定的に評価されるものも多い。少し冷静に考えてみることも大切であると思います。

私が報道を見て感じたのは、「大村博士はいったい何をやったのか」という素朴な疑問です。科学研究をやるものとしては、誰がどういう動機で、何をやったか、というのは気になるものです。不思議なことに、報道内容を見ても、私にはよくわからないのです。私が報道記者だったら、「先生は何をやったんですか?」という質問をすると思います。一般の人からは「抗寄生虫薬を見つけたという貢献だろう。お前は科学者のくせにそんなことも理解できないのか。」と言われそうです。ところが、薬を見つけるには、そういう研究や作業をやらないといけない。私が興味を持ったのは、大村博士は、問題の原点はどこにあったのか、つまり、どんなきっかけで抗寄生虫薬を見つけようとしたのか、そして、どんな汗を流したのか、ということです。ノーベル生理学・医学賞受賞者には、自分の実験を優先するために、他人の回している遠心機を止めさせたとされる研究者もいます。こういう場合は、自ら汗を流して実験をやって努力していたということを物語る逸話だと思います。では大村博士は、どういう知的あるいは肉体的な作業をしてノーベル賞を受賞したのか、ということです。

報道や少し読んだ総説などによると、伊豆のゴルフ場の近くで細菌(後にStreptomyces avermectiniusと命名)を採集したらしい。その辺の土から細菌を見つけると、ノーベル賞を受賞できるのか?そんなことはないでしょう。大村博士が、細菌から有機化合物を精製し、その構造を決めたりしていた天然物有機化学の研究者であるということはわかるのですが。。細菌を見つけても、それが役立つことを示さなければ、何の意味もないのです。つまり、スクリーニングが必要ということです。ところが、スクリーニングをやるにしても、どういうスクリーニングをやるのか、という「着眼点」、更にはどういうやり方でスクリーニングするのか、という「方法論」も必要でしょう。大村博士は、こういう部分のどこに関わっていたのでしょうか。総説がでていたので見てみましたが、よくわからない。
http://www.nature.com/nrmicro/journal/v2/n12/full/nrmicro1048.html

これによると、スクリーニングは米国のメルクでやったということです。つまり、細菌がそういう薬を作っているというのを最初に見つけたのは、メルクの誰かでしょう。共同受賞者のCampbell氏なのでしょうか。あるいは、そういう作業をやっていた無名の社員の誰かなのかもしれません。科学研究では、「わかった」「ひらめいた」「みつけた」という「ユーレカEureka」の瞬間を大切にしている研究者も多いと思います。そういう意味で、そういうステップがどこにあったのか、ということです。もちろん、大村博士がいなければ、こういう薬は見つからなかった。でも、大村博士がどういう貢献をしたのか。それがよくわからないのです。

これと関係しているのですが、ノーベル化学賞受賞者である野依良治さんが、大村先生の受賞は「平和賞がふさわしい」というようなことを言っておられた。これは、ある意味で皮肉にも聞こえてしまいます。「化学者」の大村博士に対して、その研究は「化学」という学問の発展には貢献はしてないでしょう。生理学という意味でも、学術的な価値はありませんね。ただ、多くの人を救ったということが平和賞ですね。つまり、科学上の学術的な意義はないのではないか、と基礎科学の研究者としての感想を皮肉を込めて述べたのではないか、と感じてしまいました。もちろん、野依さんはそういう言い方はしておられないわけですが、何となく本質を突いているような表現だと思いました。

実は神経科学の賞であった
オンコセルカ症は、感染したヒトの皮下を動き回る線虫が引き起こす病気です。イベルメクチンという薬は線虫を駆除できるわけですが、このメカニズムは実は神経科学とも関係しています。線虫の神経伝達の仕組みに影響を与えることで、線虫の運動をおかしくして、線虫を駆除することができるのです。神経伝達の研究というと、抗うつ薬などのように神経伝達に影響を与えることで治療するという、動物をポジティブに生かす方向の研究が広く行われてきていると思います。ところが、このイベルメクチンの働きというのは、それを線虫という動物を駆除するというネガティブな方法で使うことにより、結果として、ヒト、ペット、家畜に役立つということです。

イベルメクチンが働く仕組みについての総説
Ivermectin binding sites in human and invertebrate Cys-loop receptors
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22677714

線虫というと、バイオ系ではC. elegansがモデル動物として広く利用されていますが、この論文などは、イベルメクチンがどうやって働くか、ということを研究している例であると思います。線虫の神経系の研究も大切ですね。特に、イベルメクチンに耐性がある寄生虫がでてきたりした場合には、そういう研究が大切になってくるのだと思います。
Caenorhabditis elegans Neuromuscular Junction: GABA Receptors and Ivermectin Action
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0095072

このように今年の賞が、神経科学関係の賞だとしますと、最近の神経科学関係のノーベル賞はこのようになるのでしょうか。

2013年 生理学・医学賞 Sudhof 小胞輸送の解明 (Rothman, Schekman博士が同時受賞者)
=神経系の化学シナプスの仕組み(細胞内)

2014年 生理学・医学賞 O’Keefe、May-Britt Moser、E Moser 脳内の空間認知システムを構成する細胞の発見
神経細胞の種類とその回路、機構

2014年 化学賞 Betzig, Hell, Moerner 超高解像度蛍光顕微鏡の開発
神経系を観察するための顕微鏡

2014年 物理学賞 Akasaki, Amano, Nakamura, 白色光源を実現可能にした青色発光ダイオードの発明
オプトジェネティクスなどで用いる光源

2015年 生理学・医学賞 Omura, Campbell
神経伝達に影響を与える薬(神経細胞の間の情報伝達)

2015年の化学賞も、今年のラスカー賞との関係から、実は神経科学にも役立つ将来のゲノム編集へのノーベル賞受賞を意識したものではないか、とも議論されています。こうして改めて眺めてみると、神経科学の研究者ならば、これらのテーマが現在の神経科学のキーワードを教科書的に網羅しているということに気づくのではないでしょうか。

aver

論文の図表引用についての著作権の理解
https://www.ipsj.or.jp/faq/chosakuken-faq.html

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次回のブログの更新は、2015年11月を予定しています。

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今、ゲノム編集技術が大流行していると思います。私も、これを使っています。実は、もう2年以上前にハーバード大学のコアファシリティと一緒に技術を確立しました。ボストンでも、おそらくMITのグループに続く速さだったと思います。最初に、成功した後、ハーバード幹細胞研究所やMGHのグループからもたびたび相談を受けてきました。おそらく、世界的にもこの方法を確立したのは早かったと思います。ところが、この技術があまりに一般的になって陳腐化してしまったので、論文を書くこともできなくなり、結果を捨てるということになってしまいました。そこで、折角ですので、その方法を公開してみたいと思います。
tyrosinase-mice1

この写真は、チロシナーゼ遺伝子を標的とするTALENを使って、チロシナーゼ遺伝子を壊すことで、黒いマウスを白くした結果です。これはあまり効率がよくなく、20-30%くらいの成功率。その後、CRISPRで同様なことをやると、90%以上の成功率。生まれてきたマウスが全部白くなってしまったので、何か実験上の誤りがあったのではないか、と思いましたが、DNA配列を解析すると、確かにIndelが起こっているのです。すごい効率です。このように、Indel変異を起こすのは、驚くほど非常に簡単にできます。これが、ゲノム編集技術が生物学研究上の画期的な技術になってきているという所以でしょう。なお、一部、モザイクになっているのは、Indelが発生の途中で起こったために、こういうマウスができるのだと思われます。

この方法のこつは、注入するRNA(DNAも同時に注入する場合はDNA)を如何にきれいにするか、というところだと思います。市販のRNA精製キット(例:MEGAclear Kit)で溶出後、酢酸アンモニウム存在下でエタノール沈殿して、その後、70%エタノールで何度もリンスし、完全に乾燥させた後、RNaseフリー水でサスペンドする。つまり、RNAのカウンターイオンはNH4イオンにします。CAS9のmRNAは自分でも作製できますが、結構サイズが大きいためやや難しいです。市販のものを購入した方が容易でしょう(例:https://www.systembio.com/crispr-cas9-systems)。sgRNAとCAS9のmRNAを混ぜて、胚に注入しますが、これらは細胞質に注入すればよいので、小さな雄性前核にDNAを注入するトランスジェニックマウスの作製法より、技術的にはずっと容易です。

マウスでも簡単にできてしまうので、他の生物でも同様に簡単に「遊ぶ」ようにできてしまうのではないでしょうか?つまり、この「遊ぶ」ようにできてしまうというところが、倫理的に怖いところであると思うのです。ヒトES細胞なども倫理的な問題というのが議論されるわけですが、ES細胞というようなものより、技術的なハードルが低いということです。こういう感覚というのは、実際に使ってみるとよくわかると思います。

CRISPRの方法は、ゲノム編集を簡単にできるようにしたという意味で画期的であると思います。ゲノム編集の技術的な概念というのは、TALENとか、その前のZFNの時代からありましたし、実際にそういう方法が割合と使われていたわけです。確かに、Feng ZhangさんとGeorge Churchさんのグループから2013年初頭に報告された論文はインパクトがありました。でも、TALENの時代からゲノム編集をやっていた私などは、やはりCRISPRのメカニズムを研究したJennifer DoundaさんとEmmanuelle Charpentierさんの研究(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22745249)を高く評価してみたいと感じるのです。こういうのは、結局、基礎科学研究でどういう部分を評価するか、ということだと思います。

ちなみに、CRISPRというものの存在を初めて報告したのは、1987年、阪大の中田篤男さん(現在は、大阪大学名誉教授)と石野良純さん(九州大学農学部教授)の論文(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/3316184)。でも、機能不明だったので深い意味はないのですが、一見、金儲けとは程遠い、こういう地味な発見というのも大切だと思います。








このところ、日本では、第5期科学技術基本計画(2016-2020)の議論が盛んになっているようです。日本の科学技術政策、大学、大学院、研究所、学会の運営。。何でもそうなのですが、「根本のところから議論しない」「根本のところの議論をさせない」「根本のところの議論ができない」。こういうところがあるのではないでしょうか?議論をしようとすると、「無駄だ」「くだらない」「そういうのが世の中だ」などという理由を付けて、議論から逃げてしまう。私は、こういう姿勢が、物事を根本から解決ができない理由だと思っています。

根本のところの議論をなおざりにして、表層的な議論から何か解決を目指しているようにみえる施策が決定される。その結果は、数値目標とか、予算獲得のための方便とか、リーダーを賛美するみたいなふうになってしまい、本来の「目的」を忘れ、結局、何も解決しない。こういうことになってしまう。政策、施策、運営などで、あることがなされる場合、どうしてそんなことがなされるのか。今回は、「女性限定のPI研究者公募」ということを1つの例として、わがままに議論してみたいと思います。

悲観的になった男性研究者達
10年ほど前から特に若い男性研究者から聞くようになったのですが、「男の研究者はもうだめ。ポストもなければ、放かっておかれるだけ。」博士取得後、ポストドク後にポストがない問題が大きくなるなかで、こういう士気のない感想をあちこちで聞くようになったのです。そこそこの業績があって公募に応募しても、出来レースみたいな形で女性の研究者が優先される。女性だと、少し目立った研究をすると、すぐにポストが見つかるし、学会などのコミュニティからも大切にされるのだと。。これもSTAP問題の背景の1つだと思いますし、科学者コミュニティでは、目立った研究をする女性研究者を積極的に探そうとしているのだと思います。ところが、こういう話というのは、学会などでアンケートを取っても見かけることがありません。それはそういう形の感想が出るようなアンケートを取っていないからでしょうし、そもそもそんな意見が世の中にでてきてしまったら都合が悪いのかもしれません。若い男性研究者は、科学研究もできないし、自分の子供の教育資金もないと。。これは、この10年くらいの男女共同参画の気運や施策のもとで、今回議論するような様々な要因により、大学や研究所などが、若い男性研究者が悲観する方向を目指すようになったということだと思います。

最初に言っておきますが、私は男女共同参画の超積極的な推進派です。しかし、それを推進するための姿勢や方法に疑問を持っています。最近、作家の村上春樹さんが、読者との質疑応答のイベントをやっているのですが、その中で、村上春樹さんのこんな言葉が私の心に響きました。

「僕のまわりの『輝いている』女性たちはみんな、安倍さんに向かって『おまえなんかに、いちいち輝けと言われたくないよ』と言ってます。たしかに余計なお世話ですよね。とくに輝かなくてもいいから、女性が普通に、公平に働ける社会があればいいんです。僕はそう思います。」(村上春樹)
(引用元:http://news.livedoor.com/article/detail/9731016/


女性限定の公募は世界が納得するか?
世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)というのは、日本が誇る科学研究を推進するために作られた組織です。最近、筑波大学のWPIから出されている「Female Principal Investigator」の英語公募がNatureJobsなどに出ていて話題になっていました(下の写真)。

筑波大学のWPIといえば、在米も長かった柳沢正史さんが、リーダーを務める、しっかりとしたものだという認識があったのですが、「Female Principal Investigator」を英語で国際公募するという、このことに様々な賛否があるようです。皆さんは、この公募について、どういう感想をお持ちでしょうか。
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女性限定の公募についての捉え方というのは、いくつかあると思います。日本語で日本国内だけで公募するというケースは、既にこれまでもしばしば見かけたことがありました。一方、英語で国際公募するというのは珍しい。

日本語で国内外の日本人に向けて公募するという場合は、実は、そういうのを受容するという考えを持つ人が多いのです。むしろ「積極的に」やるべきだという意見が多かったりする。こういうのは、例えば、2012年に九州大学の理学部数学科で「女性枠」を設けたというような入学の限定枠(別の表現をすると、「男性排除枠」)を支持する意見と共通点があるのかもしれません。

一方、英語で国際公募という場合、逆に、恥ずかしいという感想を持つ人が多い。それでも敢えて肯定的に捉えるなら、「現状の問題をこういう形で世界に訴えている」のだという考え方をする人がいるようです。ちなみに、私は、こういう公募は「ハラスメント」に相当するのではないか、と個人的には感じます。もっとも好意的に捉えれば、「外国人」を採用するための公募という見方もできますが。

日本語と英語での捉え方の違いがどうして生じるのか。国際的には、人権の観点から「女性限定の公募」が非常識ではないか、と感じる人が多い。ワールドだ、グローバルだ、スーパーグローバルだと言っている日本の大学で、そういうことをやるのは、やはり国際的な人権感覚と相容れないという感想を持つ。一方で、日本語でやる国内公募だと、そうは感じない。日本では、こういう公募を出さざるをえないような悪い状況があるのだと。。つまり、こういうのは、日本という「国」の事情が大きく関わっているということなのだと思います。

表層的な法的議論でいえば、実際、日本の法律でも、「男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」の第5条では、こういう形の公募は禁止されているわけです。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47HO113.html

ところが、同法には、第8条「事業主が、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となつている事情を改善することを目的として女性労働者に関して行う措置を講ずることを妨げるものではない。 」がある。その付随する説明では、「職場に事実上生じている男女間の格差を是正して、男女の均等な機会・待遇を実質的に確保するために、事業主が、女性のみを対象とするまたは女性を有利に取り扱う措置(ポジティブアクション)は、法違反とはなりません」ということになっている。http://www.mhlw.go.jp/general/seido/koyou/danjokintou/aramashi.html 大学などで、女性研究者限定の公募をやったりする人達の議論というのは、こういう法的な説明があるのだと、大抵、そういう表層的な議論で終わってしまうのです。

もちろん、男女の機会均等を前提としたポジティブ・アクション(米国流に言うなら「アファーマティブアクション」)は行われるべきです。これは、米国や欧州の研究者公募でも、「アファーマティブ・アクション」や「機会均等」を付加した公募は常識と言ってもよいと思います。ところが、公募の段階で、「限定」、つまり変えることができない「性」により、別の性を「排除」するというのは、行き過ぎではないか、と多くの人が感じるのではないでしょうか。また、トランスジェンダーの場合は、どうなるのか、という疑問も生じる。でも、日本では、これがわりと広く許容されてしまうわけです。


「Justice」のサンデル教授と考えてみる

この手のポジティブ・アクションやアファーマティブ・アクションについては、様々な議論がある。日本の場合、こういうのは訴訟にまでなったりしないので、議論も深まらないし、「公的」な見解もあまり存在しない。おそらく、それぞれの研究機関は、こういうもの、人事のプロセスについて、マニュアルみたいなものを作って、それを「公開」するべきなのだと思います。

米国では、何でもすぐ訴訟になったりするので、議論は深まっているでしょう。ハーバード大学の前学長で辞任に追い込まれた経済学者サマーズ氏の発言問題などは、記憶に新しいところです。簡単に議論をまとめたものに、ハーバード白熱教室でのマイケル・サンデル教授の授業があります。
「入学資格を議論する」
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/100530.html

http://www.justiceharvard.org/2011/02/episode-09/
(古い授業。最新の授業はEdXで、視聴可能。サンデル教授の本も出ていると思います。)

その中では、3点の議論をしています。


(1)「機会を与える」

少し話がずれますが、日本の教育問題の1つは、都市部、特に東京などと地方、例えば、東北の田舎などとの、教育環境の差があると、私は思います。これは、家庭の所得ということにも関係しているだろうし、指導力のある塾があるとか、参考書を買えるとか、そういうものも関係している。人々に平等なチャンスを与えていない。例えば、これを補正するために、地方に住んでいて、年間所得が低くて、子供が多い場合は、センター試験の点数を加点するというような制度を作ったらどうか、と私は思うのです。つまり、教育環境で、同じ機会を与えていない。これが、このところ流行のトマ・ピケティ理論を連想させる格差の1つであるわけですが。

こういう議論が男女間でどうか、というと、そういう部分というのは、今の日本ではそれほど深刻ではないのではないか、と思います。例えば、女子だからという理由で、塾には通わせない、こういう家庭はそれほど多くはない。もちろん、そういう家庭もあるとは思いますが。特に、大学院まで進学させて、研究者になるようなレベルですと、こういうキャリア形成過程での格差というのはほとんどない、と思います。ましてや、大学、大学院での教育では、男女で違った対応を取るというのはありえない。もしあるとしたら、それは除去しなくてはなりません(例えば、男性だと、チャレンジングで面白い研究テーマを与えるのに、女性だと、手伝いみたいなテーマしか与えない教員がいるとか)。

ですから、研究者の公募において、個々人の過去のキャリアの過程での補正のために、ポジティブ・アクションを行うという理由は存在しないのではないか、というのが私の考えるところです。


(2)「過去の償い」

議論の2点目は、「過去の償い」ということ。これは、個人の過去ではなくて、社会の過去の償いということでしょう。男女差別というのは、歴史的にはどんな文化でも存在していた。それは米国でも、北欧でも、パキスタンでも、そうですし、現実にそういうものが存在しているわけです。過去の事実を、現在の社会が償うことで、補正しようということです。日本の大学などにおいても、過去の差別的な経緯があって、それを現在、「女性限定公募」や「ポジティブ・アクション」を行うことで、償う。それは、社会全体をみれば、そういうことが行われることは納得する人も多いことでしょう。

ところが、この議論の最大の問題は、「なぜ、過去の世代の過ちを、現在やこれからの世代が償わなければならないのか?」ということです。

大学で言えば、現在の大学の執行部が男性優位となっている。ところが、その過去世代のツケを、これから研究者としてのキャリアを築こうとしている若い男性研究者に一方的に押し付けようとしているわけです。若い男性研究者は、力関係で言えば弱いですから、偉い男性がそのパワーを持って、そういうことを強いている。要するに「パワハラ」であるということです。ひどい場合になると、性格の悪い熟年男性研究者が、若手の男性研究者をいじめるために、こういうコンテキストを使ったりすることもあると思います。

日本の場合、これが非常に一方的にそれだけを強いているというのが、問題であると、私は思います。そして、男性優位社会で恩恵を得た過去の世代は、知らん顔で、依然としてプンプンと威張っているわけです。そして、ポジティブ・アクションの結果としての若い世代での女性の活躍は、熟年男性優位な執行部に対する評価となってしまう。過去の過ちによって恩恵を得た世代は、しっかりと自らの過去に向き合って欲しいと思います。

米国などの有力大学の学長が、女性になったりするのは、こういう観点から、過去の世代にも償わせるという意味があるのではないか、と思うのです。日本では、最近も京大や東大の総長などの交替時期になっていますが、依然として、男性総長ばかり。地方の大学などでもそうでしょう。やはり、「なぜ、過去の世代の過ちを、現在やこれからの世代が償わなければならないのか?」という素朴な疑問に、過去の世代が全く応えようとしていない、ということです。戦争などの過去は、大昔のことになってしまい、過去の世代は実際には存在しなくなっている。一方、男女差別などの問題は、過去の過ちによって恩恵を得た世代がまだ活躍しているのにも関わらず、そういう人達は、何も償いをしようとしない。とても変であると思います。 どうせ202030の数値目標を目指すのなら、1年以内に全国の大学の学長の30%を女性にするという極めて具体的な目標を作ったらどうでしょうか。

(3)「目的」

さて、サンデル教授の議論の3つ目は、「目的」、つまりダイバシティーということです。この「目的」というのは、いろいろな観点がある。

米国ですと、医師でも、弁護士でも、マイノリティのコミュニティで働いてくれる人がいないと、困るわけです。ですから、そういうダイバーシティは大学院の入学について、必須なものという議論は納得できるものです。日本でも、地方の医学部などに、地方枠というのがあったりする。これもそういう職業の目的上、そういうことをしなければならない「具体的な目的」があるわけです。ところが、科学研究者の場合、男女、人種、出身地などについて、ごく特殊なケースを除いて、こういう具体的な目的というのは存在しないのではないでしょうか。

科学研究者の場合、具体的な目的というより、抽象的な目的というのは、しばしば議論されると思います。例えば、アイデアに多様性が必要なのだと。。でも、これは抽象的過ぎて説得力がないし、その多様性を生み出すために、研究者の性、国籍、人種、出身地などというのは、1つの因子であっても、研究分野、教育などのキャリアなどの多様性の方がもっと大切でしょう。

日本の場合、人口が少なくなっていくので、そのために、女性や高齢者を働いてもらって、労働力を増やす必要がある。これは、国の事情によるのでしょう。でも、国の経済という金儲けが目的という意味で、その目的は高尚ではないです。あるいは、世界の他の国では女性が活躍しているのに、日本はその度合が低いので、そうするのだ。これも、国の事情によって生じた「目的」ですが、国の名誉みたいなものが目的という意味で、何かちっぽけに聞こえます。更には、人権の立場から、そういう方向を目指す必要があるのだという「目的」。これは多くの人が納得する議論であるので、結局のところ、ここに目的があるというのは議論しやすい。でも、人権というのは、世の中には他にもいろいろあるわけで、なぜ男女共同参画にプライオリティがあるのか、というのは説明が難しいかもしれません。

更に、そうした目的を達成するために、「ロールモデル」を作る必要があるのが目的なのだと。。「目的の目的」。そういう議論もあるでしょう。

女性限定の研究者公募では、その目的が一体どこにあるのか。それを特定して説明できるのでしょうか?

こういう対象を限定する公募で、日本で実施した方が良いと思われるのは、日本国籍以外の人物に限定した公募でしょうか。これですと、英語で授業をやるとか、そういう「具体的な目的」があるわけです。また、欧州では、自国民以外の国籍を持つ研究者に限定した公募や研究費枠というのは、しばしば見かけます。


不誠実な運営を蔓延させるにんじん作戦
女性限定公募を出すような大学というと、筑波大学とか、広島大学とか、そういう中堅大学が多いと思います。この背景には、文科省あたりの顔をうかがって、予算を得よう、予算を減らされないようにしようという「媚び」の姿勢が背景にあるからではないでしょうか。これも、国立大学法人化以降、様々な予算の主導権をめぐって、文科省(更にその上にある財務省)と大学との力関係が変化してきたということが背景にあるのかもしれません。もう少し、文科省に対して強い立場に立てる大学などだと、こういうことはやらないと思います。あるいは、こういう中堅大学のリーダー研究者や事務関係者が、知識に乏しいのか、人権意識が低いのか、国際感覚がすこぶる欠如しているのか。ようするに「自分達のやっていることがよくわかってない」ということもあるかもしれない。つまり、文科省などに対する媚びの姿勢と、知識の欠如や運営センスの貧弱さが結びついて、こういう公募を出してしまうのかもしれません。

もっと言ってしまうと、こういう公募を出すというモーティベーションというのは、「男女共同参画」にあるのではなくて、実はエゴイスティックな「予算獲得」、更には熟年男性中心に運営されている組織の「評価向上」にあるのではないか、ということです。「女性限定のポスト」には、女性を就けておいて、別の普通のポストには、その女性を就ける必要がないので、影でコソコソと自分のコネで男性研究者をポストに就けるとか、陰湿な人事がありそうです。そして、これでは、数値目標を達成して評価を得る熟年男性リーダーが発言力を強めて、偉くなるばかりで、本来の目的とは逆の効果を与えてしまうという可能性もあったりするわけです。旧帝大のような良識的(?)な大学ですと、やはり「ポジティブ・アクション」「雇用機会の均等」などを前面に出した公募は行うが、積極的に排除するような公募はやったりしないでしょう。それでも、こういった大学でさえも、実は「ポジティブ・アクション」を行う動機に「組織全体の予算獲得」「男性中心組織の評価向上」といったものがある可能性があることは指摘しておく必要があると思います。(あるいはそう感じるので、「(2)「過去の償い」」で議論したように、学長を女性にするなどして、その疑いを晴らす必要がある)

この点について、私の提案としては、男女共同参画の推進の目的で、目的外の予算を付けたり、削ったりするような誘導行為を、基本的にやめたらどうか、ということです。数値目標を達成すれば、組織全体に自由に使える予算を付けるとか、結局、金銭を獲得するためには何でもするという人間の心を煽っているようなやり方としか、思えない。文科省や大学、研究所で、議論したり、促進策をまとめるのは、どんどんやればよいのですが、それを実行に移す段階で、予算(運営費やポスト)という「にんじん」をぶら下げるような施策はやめたらどうか、ということです。もし付けるなら、育児施設のような「目的」がそれに完全に限定されたものだけにするべきでしょう。

それでも、心ある運営を行うリーダーならば、予算とは全く無関係に、自腹を切って積極的に推進するのではないでしょうか。例えば、仲のよい熟年男性の同僚のポストを廃棄して、女性研究者のポストを優先するとか。こういうことをやれば、真に正しい心を持った優れた運営をやる人がでてきて、真の目的が追求されるようになるのではないでしょうか。リーダーや運営に真に誠実なこころを育むような施策を行うべきです。これが、私が常々指摘している「愛」に基づく科学研究の組織運営や施策につながるのです。

日本の熟年男性中心の運営組織が、予算などのインセンティブがないと、男性ばかりの組織作りを何も考えずにやってしまうのは、あちこちで見られるのです。何かのメンバーリストを見ると、男性ばかりとか、そういうのは枚挙に暇がない。こういうのは、自分の利益にならなければ、何もやらないという姿勢が根付いてしまっている証拠だと思います。こういう意識を治療しない限り、男女共同参画という本来の目的は達成できません。

そもそも、こんな不純な動機で採用されたら、採用された本人が幸福ではないでしょう。採用する側は、そういう経緯を知っているので、育成したり、協力したりする意欲にも影響を与えそうです。


科学を行う人は誰であるべきか?
どんなことでも、こういう根本のところから、科学研究の政策、大学運営などを考え、議論してみることは大切なことだと思います。日本では、実は、こういう議論が非常に不足しているのではないか。結局、なりゆきにまかせて、本来の目的を忘れたような施策がなされ、施策は心ない人々によって権力や予算獲得に利用されるだけで、根本的なところが解決しないということになってしまう。

さて、サンデル教授の最後の問いかけは、こんなものです。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/100530.html
「古代ギリシアの哲学者アリストテレスの正義論を紹介する。アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと考える。正しい分配をするためには、分配される物の目的を考えなければならないと論じる。最高のフルートは、誰の手に渡るべきだろうか。アリストテレスの答えは、最高のフルート奏者である。すばらしい演奏がなされることが、フルートの目的だからだ。」

科学の目的を考えれば、科学を行う人は誰であるべきか?最高のフルートが与えらるべきなのが最高のフルート奏者であるように、男女関係なく最高の科学者であるべきである。おそらく、頂点の科学は、こうあるべきなのでしょう。日本でも、米国でも、現状がそうなっているのか、というのには、疑問がありますが。。こういうのは、「女性枠」や数値目標の話題とも関係しているでしょう。また、ジェンダーとともに、もう1つの変えられない問題である「年齢差別」や「国籍」の問題とも関係しています。

「最高のフルート」を渡す最高のフルート奏者を探し、最高の演奏をしてもらう。そのためには、評判を聞き、実際に演奏を聞き、待遇を提示し、もてなす。そこでは、年齢も、性別も、国籍も関係ありません。科学者でも、こういう音楽演奏家のように、純粋に活躍の場を提供する。なぜ、科学者の業界は演奏家の業界のようにならないのでしょうか。

一方、「音楽の冗談」で出てくる演奏家のような2流の科学はどうなのか?でも、「2流の科学」って何か?科学ごとに価値の違いが生じているのは何故なのか?「2流の科学」は、誰が行うべきなのか?

結局、こういうのは、答えがない。そういうものです。でも、根本から考え直して議論してみるということが大切だと思うのです。次期科学技術基本計画の議論でも、アリストテレスくらいから議論してみたらどうだろうと思います。
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次回のブログの更新は、2015年3月を予定しています。

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2014年もまもなく終わろうとしています。2014年の科学を振り返るということで、ネイチャー誌がそういう特集記事を出しています。
http://www.nature.com/news/365-days-2014-in-science-1.16573

やはりCDBの件が、入ってしまいました。高橋政代さんの臨床も含めてですが。。今年の3月に「理研CDBを守れ」というブログを書きましたが、いろいろあったものの、CDBという英語名は守られたようでよかったと思います。ただ、3月時点で書いていたメンタルケアが考慮されなかった結果については、とても残念に思います。

なぜ、あの問題が日本の2014年度10大ニュースに列挙されるような時事問題になってしまったのか?そして、なぜ、問題の後始末に、窮地に陥っている何人もの若手研究者を助けることができるような金額である2x1400万円もの費用を要したのか?多くの科学者が不思議に感じていると思います。

さて、あの問題で忘れられない言葉に、竹市さんのこの言葉があります。
「どういう状況にあろうと、研究者はきちっと成果を出すのが大事だ」
http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201406/0007091283.shtml

これは、スポーツの根性論とか、そういう精神論につながるものですし、研究費やポストを確保するために、結果を出すというのは大切でしょう。それはそうです。研究者だったら、これ以外の方法はないはずです。

しかし、結果を出しても、台無しにしてしまうような仕組みが、この世の中には多すぎる。結局、こういうのが、再生医療とか、そういう分野だけでなく、脳科学も含めて、日本の科学技術研究のあらゆるところで、問題になっている。

これらを考えてみると、その根源には共通した問題があることに気づくわけです。今回は、4つの提言を通じて、これらの問題をわがままに指摘してみたいと思います。


1)科学以外の要素を使って科学研究を競争させるな
神経科学者である下條信輔さんが、朝日新聞のWebronzaにコラムを執筆されています。その中で、理研BSIについての「暴露」みたいなものがあって、楽しく拝見させていただきました。特に印象に残った言葉として、「競争はあくまで科学のルール、研究そのものの価値評価に則った競争でなければならない。」というのがありました。

大変貌を遂げてきた日本の科学の「間違い」下條信輔
http://webronza.asahi.com/science/articles/2014122000006.html

これは、昨今の科学研究のあり方を考える上で、非常に重要な議論であると思います。STAP問題が、再生医療をめぐる研究費獲得競争と関わっていたというのは、メディアの報道でも見られたし、理研の「研究不正再発防止のための改革委員会」による提言でもこのような趣旨の分析があったと思います。今から10-15年くらい前、iPS細胞が世の中にでる前には、理研CDBも笹井さんも、再生医療関係のかなりの予算を持っていた。そして予算の分配権限を持っていたから、権力行使もできたわけです。ところが、2005年以降、山中伸弥さんらによるiPS細胞の出現によって、CDBや笹井さんの予算が激減したというのは事実であると思います。これは、予算というだけでなく、権力の縮小も意味していたわけです。

こうした中で、研究費、権力獲得競争に勝つ「決定打」として、iPSを上回るもの、割烹着、リケジョ作戦を使ったのではないでしょうか。一方では、再生医療関係の成果を出せ、結果を出せ、という文科省や財務省、更には社会の要請、あるいは外部や内部の研究者のプレッシャーもある。その結果、「手抜き」をして、ルールを守らなくても、とにかく結果を出したように見せかけることを優先する。そういう背景もあったのではないか、と思うのです。早く結果を出せとか、大きな成果を出せ、というようなプレッシャーがありすぎると、やはり仕事が丁寧でなくなるというのは、常です。これも、計画することが困難な科学研究の性格とは無関係に、科学研究を競わせている結果生じたわけです。

そもそも、科学研究に、科学の価値以外のものを大きく持ち込んだのは、米国学術界の商業主義みたいなものに原因があると思います。米国の科学で根本的におかしいと思うのは、プレゼンテーション能力とか、そういう売り込むような能力を科学者の能力として過剰に評価している。声が大きい科学者の研究ほど、その研究の評価が高くなる。プレゼンテーションのうまい科学者のセミナーは確かに心地はよいですが、私は、科学者のプレゼンテーション能力の評価などというのは、ある種のレイシズムだと思うのですが。。これは、アファーマティブ・アクションなどにも関係している議論です。いずれにしても、こういう研究そのものの価値とは違うものを過剰に評価してしまい、競争させるというのは、科学研究を歪める原因になっていると思います。

一方で、竹市さんの言葉を借りれば、「自然科学的に興味深いと評価」しただけだという言い訳もある。http://www.kobe-np.co.jp/news/iryou/201406/0007091283.shtml しかし、科学研究、特に再生医療みたいな分野では、自然科学的に興味深いという評価だけでは、逆に危険です。これは、核分裂が自然科学的に興味深いと言っていて、原子爆弾の製造を考えていないのと同じような論理です。私は、ここに、マネージメントのセンスの悪さを感じる。こういうのは、無作為の行為と認識されなくてはならない。つまり、その結果を意識して、介入することで、積極的にマネージメントする必要があるのです。誰かが科学以外の道具を使って科学研究の評価を捻じ曲げようとしないように意識する必要がある研究内容というのは存在するものだと思います。


2)運営における不誠実なヤラセ行為を止めよ
私は、STAP問題にあった背景の本質の1つは、「人事」であったと思っています。ところが、メディアなどでは、これを真正面から取り上げた記事を見たことがありません。1つは、小保方氏をCDBのユニットリーダーに採用した「出来レース」。これは、理研CDBの関係者は「出来レースではない」と言い張るが、本当でしょうか。幹細胞の分野のPIを募集するという「公募」の英文を書いたのは、一体誰だったのでしょうか?この出来レースを演出したことが疑わしい西川伸一さん(元CDB副センター長)は、都合が悪くなりそうになると逃げてばかりいるが、その経緯を詳細に説明するべきだと私は思います(私は、出来レースでなく、あの時点では責任を持って明確なリクルートを行うべきだったという立場です。そして出来レースだったから、無責任体制が生まれた。)。最近も、京大関係者である柳田充弘さん、佐々真一さんが、同じように、採用の経緯についての説明が必要だという考えを表明されていました(私のTwitterのRT参考@yamagatm3)。

もう1つは、理研CDBの次期センター長人事についても、理研の理事会に諮ろうとした、あるいは数回諮ったとされる(?)候補者は、一体、誰だったのか?(この記述を参考:http://scienceinjapan.org/topics/20140620b.html)笹井さんではなかったのか?この点は、川合理事あたりを中心に理研の上層部が隠蔽しているのでしょう。更には、その先は、文科省などの官僚の昇任人事や新設される日本医療研究開発機構AMEDの人事までつながっていることはなかったのか?これも、日本の学術界周辺に広く見られる「ヤラセ」体質が根源にあると見てよいのではないでしょうか?

こういうヤラセは、いろいろなところで見られる。例えば、演出効果が最大になる何月何日に突然発表するというサプライズ。STAP問題で言えば、笹井さんを次期CDBセンター長にするため、あの時期に発表し、それを使って、研究所の予算を獲得する。更に特定国立研究開発法人化をスムースにして、再生医療、国家戦略特区、男女共同参画など、アベノミクスの矢として、政府の施策のロールモデルに仕立てあげようとするタイミングもヤラセっぽいです。ここには、次の項目で議論する「官僚」が関係しています。

こういう「ヤラセ」が横行するのは、現代の科学研究体制の運営での病理であると思います。大衆をたぶらかすという誠実さのない行為が行われ、大抵の場合、その目的は、偉い人達が権力をほしいがままにし、利益を得るためでしかないと思います。そして、そのヤラセのストーリーを作るために、いろいろなストーリーが科学を含めて作られてしまうのです。STAPでのヤラセの大失敗は、ひたすらもみ消し。私は、政策に「ヤラセ」がなぜ必要なのか、よくわかりません。


3)科学者が、官僚をコントロールせよ
文部科学省関係の官僚であり、裏でこそこそと動いてきた菱山豊さん、板倉康洋さん、堀内義規さんあたりは、一連の報道でも全くといってお名前を拝見したことがありません。あるいは、理研も、出向官僚とか、公的組織なのに何故か世襲みたいな大河内眞さん(理研は昔の特定郵便局と同じなのか)とか、おられると思います。こういう官僚の方々というのは、普段は裏権力を使って、建築や研究などの予算をコントロールしているのに、問題が起こると、裏であることを良いことに、何も説明責任を果たさず、保身を考えているのでしょう。マスコミも、一般人である研究者のパパラッチなどやらず、こういう人達をよく観察し、「黒幕」として突撃した方がよいのではと思います。あるいは、マスコミそのものが、こういう官僚によってコントロールされているのかもしれませんが。

笹井さんの作戦も、結局は、官僚の機嫌をとって、一緒になって、予算を獲得しようとした。そういう経緯があったのでしょう。昔は、結構、官僚をコントロールできる科学研究者もいたのですが、最近は、予算という武器を持った官僚の機嫌を伺い、媚びを売るような研究者ばかりになってしまったのではないか、という現状があるのではと思います。

例えば、竹市さんの先生である岡田節人さんあたりだったら、事あるごとに官僚を叱り飛ばしたのではないか、と想像します。官僚のために科学者が動くのではなく、科学者が公僕である官僚を動かすのです。こういう関係が研究者と官僚の間にできれば、リーダーシップを取る研究者が、「科学」について不見識な言動を繰り返す下村文部科学大臣を教育するために文部科学省に乗り込むということも可能だったでしょう。逆に、文科大臣に、叱られて帰ってくるようでは話になりません。

私は、科学者が官僚より上に立って、真に科学的なメリットから、予算などの配分を決めるような仕組みを構築する必要があるのではないか?と思います。米国の官僚などは、公僕たる官僚の姿に近いと思います。もちろん、こういうことができるリーダー的科学者は、自らを律することができる研究者でなければならないことは論を待ちませんが。

これと関係して、CDB前センター長のメディアへの対応の仕方でも、言動を取捨選択、改変される可能性の高い「インタヴュー」ではなく、長文の寄稿などの形で対応した方が効果的だったのではないか、と思います。また、リーダー研究者は、ソーシャルメディア等を普段から使いこなし、危険性などに熟知するなど、慣れておく必要があると思います。そして、常々、こういう仕組みの問題を暴露していけば、科学者による科学研究政策の推進がやりやすくなるのではないか、と考えます。



4)科学者も人間であり、心理や感情の考慮が必要である
今年2014年の1月から始まったSTAP論文騒動ですが、12月19日に、その再現実験や検証実験が終わるという発表がありました。また26日には、ES細胞の混入だという報告も、遺伝研所長の桂勲さんを委員長とする委員会から報告がありました。やはり、大きく報道されていたようです。私は、むしろ、大きく報道させるように、仕向けたということがあったのではないか、とさえ思っています。そして、マスコミやら、あまり研究経験のないサイエンス・ライターみたいな人がいろいろコメントをする。それぞれ、もっともらしいことを言っているとは思うのですが、しかし、本質を突いているようには思えない。

私は、この時事問題というのは、もう少し「心理学」的に分析されるべきではないか、と感じています。もちろん、政治とか、研究費を含めての科学技術行政、 教育。。様々な要素があることは事実ですが、これまでのマスコミや研究者を含めての分析など見ていて、一番、欠けている視点ではないか、と。。

これも単純には書けないことですが、例えば、光るものを見て、本当に信じてしまった。それが人間関係等も含めた環境の中で思い込みが強まっていく。その中で「ごまかし」が始まる。あるいは「でたらめ」になる。そういうあの方の心の中の過程を含めて、政治に利用しようとした周りの人についても、どういう心理状態があったのか。笹井さんも丹羽さんもなぜ信じてしまったのか。笹井さんの報道対応の中ででてきた「細胞のサイズが違う」「実験をやったことのない人の机上の考えだ」なんていうのは一体なんだったのか?共同研究者の心理、あるいは、マスコミ の心理、大衆の心理など。。こういう感じの分析でしょうか。

場合によっては、「自由意志」に基づかないことだったかもしれない。うつ病で試料管理ができないとか、夢遊病者が殺人を犯してしまうような。場合によっては、精神鑑定なども必要なのではないか、と思います。そういう話は一度もでてこなかったのでしょうか?その過程では、法的には何の意味もない嘘発見器やfMRIなどの利用も参考程度にはなるかもしれません。この自由意志の問題というのは、実は大学院などでの教育問題にも関わっていると思います。教育では教えたりして育成することも大切ですが、職業選択上の不適性ならば早期に気づいてなんらかの措置を取るべきです。

ですから、周りの人が感じていたという「事実」を知ることは、大切だと、私は思います。これが真に「科学的」な態度です。竹市さんがCDB内部の調査報告書の中で「信頼性がないと判断して」削除してしまったと言われる内容ですが。。誰かが感じていたことという事実を記述するのが、科学的な態度であり、感じていたという印象は不確かだから記録に残さないというのは、科学的な態度だとは、私は思いません。実は、この不確かさ、曖昧であるという事実に、真実が隠されているのかもしれません。

こういうのは、ある意味で歴史研究や文学の世界かもしれませんね。科学的にいろいろ分析しても、やはり「自白」がない限り、本当のことは、最後までわからないと思います。。 こういうことがしっかり分析できるようになれば、「自死」などの背景理解や防止にも役立つことと思います。そして、実は、こういう科学研究者の心理や感情についての考慮が、男女共同参画を含めた日本の科学技術行政に根本的に欠損している視点であると思うのです。日本の科学技術行政には「愛がない」。私が、別のところで主張し続けてきたことです。

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次回のブログの更新は、2015年2月を予定しています。

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今年のノーベル賞は神経科学に関連深い内容が対象になって、世界的にも脳科学への関心が高まっている様子が感じられる今日このごろです。私も、10月中旬に日経バイオテクにノーベル賞関連コラムを書かせていただきました。

2014年度ノーベル賞と脳科学の未来(前編:生理学・医学賞、脳内GPS機能を担う神経細胞の発見)https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20141016/179589/

2014年度ノーベル賞と脳科学の未来(後編:化学賞と全世界の脳科学研究をめぐる動き)https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20141016/179596/
(日経バイオテクには、アカデミック版というのもあり、ac.jp、go.jpドメインからですと、安価で記事が読めるようです。http://nbt.nikkeibp.co.jp/bio/bta/

さて、今回は、日本の脳科学プロジェクトであるBrain/MINDS(革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト、通称「革新脳」)について、こんなこと書いてもよいのか、という辛口の批評を行ってみたいと思います。日本のこのプロジェクトについては、数週間ほど前に、ようやく本格的なホームページが立ち上がっています。研究成果を説明するものでなく、構想を説明するだけのホームページなのに、とても仕事が遅いです。
日本語:http://brainminds.jp/
英語:http://brainminds.jp/en/
(まず、このホームページは、http://brainminds.jp/の方を、英語にするべきでしょう。)

ヨーロッパのHuman Brain Projectでは、それに異議を唱える神経科学者の人達が、公の場で、Human Brain ProjectのHenry Markramさんの目標は、「Fraud」だと明確に書いたり言ったりしています。「Fraud」、日本語で言えば、「詐欺」「不正」だと、抗議しているわけです。日本に巨大科学プロジェクトがあったとして、科学者が「詐欺」という刺激的な言葉を使って、公に抗議することを許容するような文化があるのでしょうか。そんなこと言ったら、科学者コミュニティから村八分にされて、干される、潰される。日本の科学者コミュニティには、こういう文化があるのかもしれません。少なくとも、こうした批判ができる寛容で健全な科学研究環境を熟成することが大切だと、私は思います。

日本の生命科学系の巨大プロジェクトの一般的な問題点

日本の生命科学系の巨大プロジェクトで、私が思い起こすのは、まず、1990年代に米英を中心に行われた「ヒトゲノム計画」への貢献度の低さがあります。もう1つは、「タンパク3000」と称する蛋白質の立体構造解析プロジェクトで好熱菌のタンパクの構造を解いたものの、数を稼ぐだけに終わってしまったことでしょうか。これらについては、様々な議論が可能であるとは思いますが、多くの課題、問題点が指摘されていました。

ヒトゲノム計画については、当時、慶応大の清水信義氏が、「日本のトップランナー清水信義が説くヒト「ゲノム」計画の虚と実」(2000年) という本の中で、東京大学(当時)の御子柴克彦氏と中村祐輔氏を、名指しで批判したことなどがあり、話題になりました。
「研究費を巡る行政の矛盾、一流の研究者が育たない学 閥の壁、業績を公正に評価しない日本のアカデミズム、遺伝子情報を求め迷走する大企業、国家プロジェクトとしての自覚がない日本という国…。」
その他には、リーダーとして自らやその関係者の名誉や権益を求めることには懸命でも、本気になって特定科学プロジェクトのみにそのエフォートを集中していなかったというリーダーとしての基本的な態度に欠陥があった。そして、研究者にそうしたアクションを取らせ、研究体制を構築させてしまう日本の行政のあり方も問題であったと思われます。

タンパク3000についてもネイチャーの英文記事や中村桂子さん(生命誌研究館)の朝日新聞の記事などで、その問題が大きく論じられました。
その様子を伝えるブログ記事1
その様子を伝えるブログ記事2

「米国では必要性や実現可能性を検討するが、日本ではそれらなしにいきなり大型プロジェクトが開始され、評価が生かされずに次に進んでいく。税金の投入や成果も問題だが、そこに大勢の若者が投入されることも気になる。これでは科学の本質を深く考える科学者が育たない。学問と社会の行く末を見つめ、難しさにたじろぎ、悩みながらも重要な課題に挑戦するのが科学者である。」(中村桂子氏 http://buu.blog.jp/archives/50339835.htmlから引用 )
更に、これなどは、数を稼ぐこと(数値目標)にこだわってしまう日本の官僚主導型のプロジェクトの矛盾が表出したものではないか、と思われるわけです。これなども、事前に科学者コミュニティで深い議論をすれば、もう少し有用なことができたのではないか、という反省はあるのではないでしょうか。

こういうプロジェクトで感じるのは、やはり日本のリーダー的科学者のリーダーシップの自覚のなさや基本的姿勢の問題の問題です(以前に拙ブログ「深刻だが気づかれていない問題」でも指摘しました)。そして、他の科学技術行政でもしばしば指摘されている一部の御用学者と官僚的な行政との間での権益の癒着、秘密裏に何かを計画することで「後出しジャンケン」みたいなことをやるといった倫理とアカウンタビリティの欠如、科学的なメリットではなく個人的な人間関係(コネ)が最初にあって、それを前提にして科学研究の具体的プロジェクトを提案する、などが、このような問題点の背景にあったとみることができると思います。

Brain/MINDSの中心課題となるコモンマーモセットのプロジェクトを見ていても、これらと全く同じような雰囲気があるのです。


マーモセットを考える

コモンマーモセット(Callithrix jacchus)が、小型で取り扱いが容易で、繁殖力が比較的高い、そして高次の脳機能をもつサル(霊長目)であるということから、脳科学の実験動物として利用できる。そして、これを米国のBRAINイニシアティブや欧州のHuman Brain Projectに対応する日本の巨大?脳科学プロジェクトのメインテーマにしたというのが現状なのでしょう。今年10月中旬のNatureにコモンマーモセットの日本の野心的なプロジェクトについての紹介がでていたことは、ご存知の方も多いと思います。
Marmosets are stars of Japan’s ambitious brain project
http://www.nature.com/news/marmosets-are-stars-of-japan-s-ambitious-brain-project-1.16091

この記事、一見、日本のプロジェクトを好意的に紹介するプロモーション記事のように見えるのですが、最後の方で、NIHのAfonso Silvaさん(http://neuroscience.nih.gov/Lab.asp?Org_ID=510)が、コメントしています。
“I would love to see one single important disease studied in great depth,” “Validating the approach on that one disease will then enable the project to be repeated in other diseases.”

なぜ、この人がコメントしているのだろう、という素朴な疑問もありますが、これはある意味で批判的なコメントなのでしょう。あるいは、日本の研究者がこの人の口を借りて、何か都合のよいことを言わせたという見方もできると思いますが。。

要するに、マーモセットを使って、どんなことができるのか、1つの例(ケーススタディ)で見てみたいというのです。グラント審査みたいな非常によい模範的なコメントだと思います。その過程で、様々な問題点がでてくるでしょうし、解決策も見つかるかもしれない。逆に、うまくいかなくて、絶望的になるかもしれない。結局、マウスなどの他の動物を使ってわかっている以上の知見は、ほとんどでてこなくて、お金だけ使って、基本的に美術作品を掲示するだけの膨大な確認研究に終わる可能性もある。もちろん、「牛馬的研究(牛でわかったことを馬で研究する)」というのも、考え方によりますが。。


マーモセットという方便

コモンマーモセットについては、いろいろと話題になって、この動物の研究をすると、良いポストに就任できたり、研究費が沢山入り、ハッピーになるということで、多くの人の関心を集めているものと思います。また、ポストポスドク問題で、職が見つからない人なども、これに関わると大切に扱われそうな雰囲気がある。こういう理由で、日本では話題になっているのだと思いますが、米国では話を聞くこともないので、関心をなかなか持ちにくい。一度、レクチャーでも聞いてみたいものです。マーモセットの切片を抗体で染めただけで、日本で良いポストが見つかるのなら、私もやってみたいです。

こういうのも、この材料を宣伝することで、研究費とポストという権益を獲得することができるという社会的背景があるのではないか、と思います。そして、日本の場合は、このやり方が直接的あるいは間接的に、そして陰湿的に、排他的である、という問題があると思います。こういうのは、特に若手研究者の「ヒラメ化」(上ばかりを見て陳腐化する)をもたらし、日本の学術の「(悪い意味での)ガラパゴス化」(閉じられた小さな世界でのみ通用するように独自に進化する)につながる可能性があるので、注意するべきことだと思います。


マーモセットの実験は再現できるのか

そもそも、マーモセットについて、調べようとすると、詳細に説明している適切なウェッブサイトが見つからないし、資料などあっても、「都合のよいこと」しか、書いてない。
http://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n1038_01.pdf
十分な説明責任を果たしていないのではないでしょうか。何か、隠し事でもあるのでしょうか。物事には、都合のよいこともあれば、悪いこともある。その現状を率直に認めることで、どう解決していけばよいのか、そういう研究やアイデアを求めることが大切であるわけです。この動物は、つがいで100万円近くするらしい。もちろん、自分で繁殖していれば、そんなことはないでしょうが。。この価格を聞いただけで、とんでもない、というイメージがあります。何か論文を出しても、それが本当なのか、世界中の誰も再現できないでしょう。そもそも、マウスのように増えないし、動物が入手できないのです。これでは、再現性のない微妙な結果ばかりが報告されそうです。そして、その結果を信じたらよいのか、誰もわからない。特に、統計学的に微妙な結果が多くでてくる神経科学や動物行動学では、データの数を増やすことが大切でしょう。でも、そんなこと、どこにも書いてないです。


マーモセットの印象操作

この世の中では、説明の仕方で、いろいろ印象が変わるというのは常です。科学なんていうのも、そういうものです。同じことを説明するにも、違う説明の仕方 をすれば、印象が良くなったり、悪くなったりする。論文の書き方でも、同じデータを使っても、その並べ方や説明の仕方で、良いジャーナルに掲載されるか、 されないか、決まってしまうという面がある。科学的な発見や研究なんていうのは、かなり印象操作が大切になっているものです。

マーモセットの説明の仕方を見ていると、まずマカク(旧世界ザル)などの他のサルと比べる。そして、マーモセットの優越性を主張するわけです。
http://www.ciea.or.jp/division2.html

私が見てみたいのは、マウスとの比較表でしょうか。そのうちに、作ってみようと思っているのですが。。他のサルと較べて、マウスと較べないというのは、1つの印象操作なのでしょう。また、霊長目を用いた研究を実施する時には、欧米では大問題になると思われる動物実験の倫理的課題についても、あまり騒ぎにならないように巧みに回避しようとしているのではないか、という態度があるように感じます。


マーモセット・コネクトームの本気度

岡野栄之先生ら(慶応大学)のNeurosci Researchの解説(総説?)を見ると、こんなことが書いてある。
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0168010214001904

「A new method of serial EM, developed by Prof. Jeffery Licht-man’s laboratory at Harvard University (http://www.hms.harvard.edu/dms/neuroscience/fac/lichtman.... will be used to map neu-ral connections (connectomes) at nanometer resolution. This andsimilar EM-based technologies have enabled researchers to quan-titatively map the precise location of cells, synapses and evenorganelles in a certain micro-domain of the brains (Bock et al., 2011;Briggman et al., 2011; Chklovskii et al., 2010). However, quantifica-tion of the EM-based micro-connectome for the entire marmosetbrain is not realistic within the limited time period of Brain/MINDS.Thus, Brain/MINDS will focus on mapping the brain regions that areintimately involved in higher brain functions or associated withdisease. It is important to develop new technologies that connectand integrate the EM-based microscopic mapping with the light-microscopy-based mesoscopic mapping.」

こんなものも誤魔化しみたいな感じがする。適当にその高次機能に関わると言われてきている場所の小さなブロックを作って、切片を沢山作って、写真を撮影し、リコンストラクションして、少しばかりの神経細胞のコネクトームと称する「美術作品」を見せる。こんな結果であっても、堂々と成果だと発表できるような書き方だと思うのです。科学的にメリットのないこんな提案でしたら、例えば、NIHのグラント申請では、落選確実でしょう。

実は、私の現在のプロジェクトの1つも、Lichtman研のシステムを使わせてもらっていますが、電顕の予約が一杯、更に切片を集めるテープが入手できない とか、で困難な状況にあるのです。本家がこんな状態なのに、マーモセットなど真面目にやる余裕があるとは思えないです。是非ともやってみたくなるような ワクワクとするような具体的構想がないと、なかなか難しいのではないか、と感じます。(違うのだと言う人がいたら、是非、反論して欲しいです。)

コネクトームでは、対象が小さいほど、容易に研究しやすいという利点はあるでしょう。一方、脳での神経活動を見たりする技術の適用は、マーモセットの脳が小さいということは、利点にもなりえますが、欠点にもなりうることを明確に指摘するべきでしょう。

モデル動物としての欠陥?
以前、どこかで目にしたことがあったのですが、私が最近、気にしていること。詳しい方がおられたら、是非、教えて欲しいと思いますが、「キメラ」の話です。マーモセットのキメリズムの問題ですが、ここに割合とよくまとまった記事がでています。どういう証拠から、そういうことを言っているのか、というのは、オリジナル論文をご覧になるとよくわかると思います。
http://johnhawks.net/weblog/reviews/genomics/primates/marmoset-chimerism-2014.html

要するに、お腹に2つ、3つの赤ちゃんA, Bがいた場合、個体Aの細胞が、別の個体Bに入り込んでくるというのです。血液系の細胞については確実で、体細胞については、以前考えられていたほ どでもないが、そういう状態があるのではないか。更に、不思議なことに、生殖系列も、キメラになっている。というのです。つまり、Aが+/-で、Bが-/-だったら、Aの+/-の細胞がBに入り込んでくるというわけです。この現象はとても興味深いですが、実験動物として使うという場合、深刻な問題を意味していることは、モデル動物を使っている研究者なら、わかると思います。

文献上は、脳などの神経系について、調べたという報告はないみたいです。こういうのは、GFPを組み込んだ形質転換動物を作って、それがどこで見られるか、こういう実験があると、簡単にわかるでしょう。既に、やっているのでしょうか。でも、結果によっては、発表すると、このモデル動物の根幹を揺るがすような事態になりそうです。いずれにしても、どんな結果でも、この疑問に答えているような論文を見てみたいものです。

最後に
実は、マーモセットについて、もう少しまとめて何か書いてみようと、考えているのです。このブログは、そのたたき台にするために書いたという意図があります。私自身は、全然、扱ったことのない生き物ですが、そういう観点から、素朴な疑問点、問題点、更に、研究体制や研究組織の問題を含めてですが。。日経バイオテクに「脳科学」に関するコラムを連載したという経験、金澤一郎氏が翻訳を監修したという「Principles of Neural Science」に、日本人として、名前が最も多くでてくるという研究者であるという過去(現在は落ちぶれて、消えていくだけ)。更に、このBrain/MINDSプロジェクトとは、全く利益相反関係がない、こういう気軽な立場ですので、いろいろなことを忌憚なく書けるはずです。もし、こういう問題がある、こういうことを指摘して欲しい、問題はあるがそれを無視してもすごい、という点があったら、是非、お知らせください。

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次回のブログの更新は、年末を予定しています。

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米国NIHのBRAINイニシアティブのプロジェクト公式発表
しばらく前に発表されたNSFのBRAINイニシアティブ関係プロジェクトの発表に続いて、9月30日(米国東部時間)に、米国NIHのBRAINイニシアティブの最初のプロジェクトの内容が公開されました。ホワイトハウスにおいても、コンファレンスが開かれるとともに、大学など各研究施設でも大きなプレスリリースがなされました。

NIHのFrancis Collinsディレクターが、そのブログの中で「America's Next Moonshot」という言葉を使いましたが、この言葉の中に、その意欲のすべてが現れているような気がします。
http://directorsblog.nih.gov/2014/09/30/brain-launching-americas-next-moonshot/

ホワイトハウスでも、BRAINイニシアティブのページが設置され、最近の動きを「ファクトシート」の中でまとめています。
http://www.whitehouse.gov/brain
ファクトシートのダウンロード(pdf)。
http://www.whitehouse.gov/sites/default/files/microsites/ostp/brain_fact_sheet_9_30_2014_final.pdf

これによりますと、政府関係の参加機関として、NIH, NSF, DARPAに加えて、FDA(食品医薬品局)そしてIARPAが加わっています。IARPA (Intelligence Advanced Research Projects Activity)というのは、簡単に言えばCIAの機関です。諜報機関も加わって、認知科学の研究に挑むということになるのでしょう。また、先回のブログでも取り上げたように、政府関係の機関だけなく、Google、GE(General Electric)などの民間企業、更に、Simons Foundationなどの新たな民間財団が加わっています。NIH, NSFだけでなく、軍事、諜報、民間企業、民間財団も含めて、大きな動きを見せているところが、米国のBRAINイニシアティブの特徴でしょうか。
Simons FoundationのGlobal Brain
http://www.simonsfoundation.org/life-sciences/simons-collaboration-on-the-global-brain/

ホワイトハウスでのコンファレンスでは、若い大学院生や大学生がコメントを読み上げ、このプロジェクトについてのコメントを読み上げました。人材育成の上でも、大きな効果が期待されます。
The White House Conference on the BRAIN Initiative (YouTubeで3時間あまりの内容のうちの半分ほどが紹介されています。)
https://www.youtube.com/watch?v=6MEGFFlMHpQ

NIHのBRAINイニシアティブで今回選定されたのは、やはり出来レースとも言えるような、米国の神経科学の中核となる機関や大学の研究者です。それぞれのプロジェクトの詳細はこちらから。
http://www.braininitiative.nih.gov/nih-brain-awards.htm

今回は、個々の研究課題について、本ブログでは、詳細なコメントを書く余裕はありませんが、「神経科学者SNS」の日記ページでも、時々紹介していますので、もう少し深い内容を知りたいという方はそちらの方も御覧ください。
https://neurosci-sns.nips.ac.jp/


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Human Brain Project (ヨーロッパの巨大脳科学プロジェクト)
さて、米国のBRAINイニシアティブの発表と同じ週に、ヨーロッパEUのHuman Brain Project(HBP)の方も、ドイツのハイデルベルク大学でHBPサミットが開かれ、その状況が報告されました。
https://www.humanbrainproject.eu/
このHBPサミットは、スイスのCERNの60周年式典と同時に開かれていたのです。これは単なる偶然なのでしょうが、HBPを、EUのフラッグシッププロジェクトとして、CERNのようなものにしたい、という願望が込められているような気がしました。このサミットには、米国の関係者や、日本からも慶応大学の岡野栄之教授などが参加し、Brain/MINDSプロジェクト(Brain Mapping by Integrated Neurotechnologies for Disease Studies)を紹介しました。



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その他の国の脳科学プロジェクト
さて、米国やヨーロッパだけでなく、中国でも、その資金力、人材力を使った脳科学プロジェクトが始まっています。まだ議論があるようですが、基本的には、トランスレーショナルな研究に重点が置かれるようです。
Where to the mega brain projects?
Mu-ming Poo (Institute of Neuroscience, Shanghai Institutes for Biological Sciences, Chinese Academy of Sciences, China)
http://nsr.oxfordjournals.org/content/1/1/12.full

HBPのサミットでは、Luo Qingming氏 (華中科技大学、武漢市)が説明をしていたようです。

また、Brainnetomeと名付けられたプロジェクトも中国の脳プロジェクトの中心になると思われます。
Brainnetome Center, Institute of Automation, Chinese Academy of Sciences, Beijing, 100190, China
http://www.brainnetome.org/en/
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23571422

韓国では、Center for Functional Connectomics (http://cfc.wci.re.kr/english/portal.php)が、設立されました。

オーストラリアでは、AusBrain。
http://www.theguardian.com/world/2014/feb/24/australian-scientists-should-set-minds-to-developing-bionic-brain-report
AusBrainのパンフレット(pdf)。
http://www.sciencearchive.org.au/events/thinktank/thinktank2013/documents/FINAL%20thinktank2013%20recommendations_embargoed%20till%2025feb.pdf

HBPサミットでは、Bob Williamson氏 (Australian National University)が説明していました。

数理や理論に伝統があるイスラエルの神経科学。 
IBT (Israel Brain Technology)
http://israelbrain.org/

EUとは別に、東欧の国でも脳科学への投資が始まっています。例えば、冷戦時代から脳科学の伝統があるハンガリー
Hungary launches 39 million euro brain research program, the single largest scientific grant in country’s history
http://ibro.info/news/hungarian-brain-research-program/

アジアで生命科学に力を入れているシンガポール
Launch of Singapore’s largest neuroscience research institute
http://news.nus.edu.sg/highlights/7479-launch-of-singapore-s-largest-neuroscience-research-institute

なお、数年後に、米国、EUを含めたこれらの活動が一同に集まる会合が、Allen脳科学研究所の主導で計画されているとのことです。

brain


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さて、先月のブログの続きです。私は、2014年1月から3月まで、日経バイオテクに「脳科学の未来」と題する連載記事を書かせていたできました。
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1970798.html

今回は、その「脳科学の未来」の第6回「7つのチャレンジ」の部分を、日本の脳科学発展の議論のきっかけとするために、公開しておきたいと思います。
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「脳科学の未来」第7回「7つのチャレンジ」(https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140326/175032/>日経バイオテク記事に追加)
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日経バイオテクには、アカデミック版というのがあって、大学(ac.jp)、政府機関(go.jp)のドメインに所属されている場合は、安価で記事が読めるプランがあるということです。
http://nbt.nikkeibp.co.jp/bio/bta/
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曖昧な目標と不十分な方法論

これまで5回にわたって、「脳科学の未来」と題して、米国のBRAIN Initiativeの動向と、それに含まれるコネクトーム、コネクトミクス、機能的脳マップ、ビッグデータなどのトピックスについて紹介してみた。最終回の今回は、巨大な脳科学プロジェクトとしての問題点や課題を検討してみたい。

その前に、まず、全体を振り返ってみたい。以下がこれまで解説してきた項目である。議論を理解するために、今一度、各項目についての概念と現状を確認していただきたい。

各項目へのリンクはこちらのページから。
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1970798.html

前半の「コネクトームへの挑戦」では、ニューロンのつながり方の総体としてのコネクトーム、そしてその研究法であるコネクトミクスのいくつかの例、更に、このような方法論が適用された単純なモデル動物、モデル材料について概観した。後半の「機能的脳マップへの挑戦」では、神経活動を可視化する方法、fMRIの活用を中心としたヒトコネクトームプロジェクトについて簡単に解説してみた。また、このようなプロジェクトで得られたデータをどのように扱うか、という問題について、主にビッグデータの観点から論考してみた。

米国のBRAIN Initiativeの場合、こうした「コネクトーム」「脳マップ」というゴールが中核になっている。ところが、2013年4月にオバマ大統領によって発表されて以来、反対論を含めた様々な議論が出ているのも事実である。ここでは、7つの観点から、議論をまとめてみたい(図1)。

(その1)目標は何なのか?
オバマ大統領のBRAIN Intiativeは、「アポロ計画」や「ヒトゲノム計画」と対比されるような大型の科学プロジェクトであると、標榜されている。では、過去におけるこれらの計画と何が違うのか?

ケネディー大統領が提唱した人類を月面に着陸させるという計画の目標は、単純明快だった。改めて説明する必要もない。ヒトゲノム計画は、ヒトゲノムを構成するA、T、G、Cという4つの塩基からなるDNAの配列を決めるということであった(図2)。DNAが2重らせん構造をしていて、その線状の配列はデジタル的な情報として記述でき、生命体が世代を超えて伝えていくゲノムという実体は明確だ。もちろん、ゲノム構造には、クロモソーム中のテロメア、配列決定が困難な反復配列、DNAメチル化のような4塩基以外のエピジェネティックな修飾もある。更に踏み込めば、本当に完全にDNA配列が決まるというゲノムという実体の存在は、現在においても仮説なのではなかろうか。ヒトゲノムは個人によって違うので、誰のDNA配列を決定するか、という議論もあったし、男女の違いというのは、決めるゲノムが1つではないということの大きな例である。しかし、それでも、ヒトゲノムの全DNA配列をひとつの目標として決定するというのは、ほとんどの科学者を十分に納得させる明確な目標ではあった。説得力のある目標があるというのは、極めて大切である。コネクトームや脳マップの場合は、どうだろうか?

コネクトームの場合、センチュウのように同じ遺伝形質を持った個体であれば、同じコネクトームを持つという場合は、目標を立案し、実行できる。センチュウのコネクトームは、基本的に、どんな個体でも同じ形をしていて、記述できる「ステレオタイプ」なものだ。ところが、ヒトやマウスといった脊椎動物の場合、同じ遺伝形質を持っていたとしても、そのコネクトームは基本部分に共通性はあるとしても、脳のサイズも違うし、ニューロンの数も異なる。細胞レベルまで見た場合、細胞の形態も違うし、結合の証となるシナプスの位置もすべてが同じ座標上で定義できるものではない。

もちろん、ヒトやマウスでもひとつの個体だけをとれば、コネクトームという物理的な実体は存在する。ところが、別の個体では違う。つまり、コネクトームというのは、細胞レベルの構造まで突き詰めてしまうと、曖昧なものであり、異なる個体同士で重なり合わないものである。したがって、ある1つの動物種のコネクトームといった場合、異なる個体間での共通性のみに焦点があたる。個体差は、ゲノムに見られるSNPsのような遺伝的多型のような形で捉えることができるかもしれないが、個体間でのコネクトームの差は情報量としてあまりに大きく、単純に扱えるようなレベルのものではない。果たして、その差に意味があるのかもさえもわからない。更に、コネクトーム記述の道具として使う電顕写真というのは、デジタル的なDNA配列と違って、アナログ的であるので、膨大な情報を持っている。そして、電顕写真の質を変えたり、解像度を上げれば、更に多くの情報が得られる可能性さえあるということで、塩基配列というデジタル情報の決定で完結するゲノム計画とは大きな違いがある。

機能的脳マップについては、空間的な構造として物理的に定義ができるコネクトームより更に曖昧だ。そもそも脳の機能というのが、いくつあるのか、それぞれを区別できるのか、など、不明瞭である。仮に脳の機能の数を決めて、ある目標を立てたとしても、目標が終わったら、それほど飛躍しない次の目標が出てくるというのは容易に想像できる。これは、人類が月面に立てば、それで目標達成というのとはかなり違う。つまり、脳マップ作製プロジェクトの場合、目標の実体さえ曖昧で、シーシュポスの神話のように新たな目標達成を繰り返すサイクルに入ってしまう、という危険性がある。

加えて、現時点では、コネクトームと脳マップを結びつける技術が存在しないために、いくつかの異なるプロジェクトが整合性なく混在しているというのも、BRAIN Initiativeの目標が混乱して曖昧になっている原因である。この目標の曖昧さの問題について、説得力を向上させる現実的なアプローチとしては、例えば、「がん研究」のように疾患の制圧というようなものを、強くアピールするようなことだろうか。ただ、こうするとまた違った問題意識を持ち込むことになるので、焦点がぼけてしまうだろう。


(その2) 研究戦略として科学的に正しいのか?

神経科学者の多くがしばしば指摘するのは、コネクトームがわかっても、神経系や脳がどう働くか、全然わからないのではないか、ということだ。つまり、研究戦略として、コネクトーム情報の取得に多くの時間、人材、研究費を費やすのが、果たして正しいのか、という議論がある。ここでは、神経系を理解する際の本質的な「部分と全体の問題」、「可塑性の問題」、「機能発現の規模の問題」、「結合の性質の問題」の4つの視点を紹介してみたい。

センチュウの302個のニューロンからなるコネクトームは1980年代には完全に解明されているが、センチュウの行動についての研究は、未解明な点が多く、現在でも盛んに行われている。つまり、コネクトームがわかっても、それは役立っていないのではないか。これは、例えば、パソコンの中にあるチップやドライブなどのつながり方をみても、パソコンがどう動くかわからないという問題と似ている。つまり、パーツだけを見ても全体はわからないという指摘である(部分と全体の問題)。この議論は、「ビッグデータ(2)脳科学データリソースの充実」でも議論したDavid Marrによる「認知プロセス3段階仮説」と共通している。ところが、それでも、やはりどんなパーツがあって、それらがどうつながっているか、という情報は、無いより、あった方がよいのは自明である。センチュウの研究者も、コネクトームの情報を利用して、行動を理解しようとしているのだ。

脊椎動物の脳の特徴は、その機能や神経回路が、遺伝子ですべてが決定されるのではなく、環境との相互作用で大きく変化するという点である(可塑性の問題)。発達、加齢、疾病、傷害などで変化するというのは、他の臓器でも同じであろうが、脳は環境との相互作用、つまり体験を通じての学習や記憶でも変化している。1時間前の脳は、1分前の脳そして現在の脳とは状態が違う。非常にダイナミックなものだ。こうした変化している対象について、ある時間1点でのコネクトームが解明されたところで脳の本質がわかるのか?もちろん、発達、加齢、疾病、傷害で変化するコネクトームは、発達、加齢、疾病、傷害を特徴づける脳内の神経回路の変化を見出すことができる可能性があるので、意義は大きいだろう。学習や記憶については、現代の神経科学はまだその本質を理解しているとは言い難いのではないか。コネクトームの情報は、そのための基礎情報になるだろう。

脊椎動物になると、ニューロン間のつながりというのは、ぼやけた部分というのがある。そして、個々の神経回路に多少の間違いや不具合があっても、多数の神経回路があれば全体としては機能するので、その目的を達成できる。その極端な例は、何らかの理由で、脳の一部が失われても、それなりに機能はするという柔軟性を脳が持っているということだ。このことから、個々のニューロン間の結合というのは、絶対的なものではなく、確率的なものに過ぎず、それでも全体としては機能するから、コネクトームは重要ではないのではないか、という指摘がある(機能発現の規模の問題)。しかしながら、それでも、ニューロン同士はそれなりに正確につながっているから、神経回路は機能するわけで、結合がファジーだからといって、機能するために必要なニューロン同士の正確な結合というのは存在していないわけではない。

ニューロンのつがなりである化学シナプスには、興奮性、抑制性、その他、機能を制御するための様々なつながり方の様式があって、電顕で形態だけを見ても、シナプスの性質まではわからない(結合の性質の問題)。例えば、興奮性シナプスでは神経伝達物質としてグルタミン酸、抑制性シナプスでは神経伝達物質GABAやグリシンが使われている。更に、アセチルコリンやセロトニンといった神経伝達物質を使うシナプスもあるし、シナプスの働きを変化させる神経ペプチドなども存在する。そして、記憶や学習などにおいては、シナプスの性質が、生化学的に、増強されたり、抑制されたりする。つまり、つながり方の形態を見るだけでは、こうした情報は不明なので、コネクトームだけでは結局多くのことはわからないという指摘がある。これは事実である。しかし、それでも、コネクトームの情報は、それを基礎情報として活用するには大切なものだ。

まとめると、コネクトームのような情報は、「色鉛筆」で塗り始める前の「白地図」のような基本情報となるということである。研究戦略におけるデータ収集という意味で反対する人はほとんどいない。しかし、一方で、目標の曖昧さ、科学的説得力の弱さから、研究戦略として、それだけに優先的に研究を集中させるのは反対だという意見が存在するのも事実である。機能的脳マップ作製では、次項で示すように、現行の方法論そのものに本質的な問題がある。

(その3)方法論はあるのか?
方法論な問題点については、これまでの解説でも、それぞれの項目で具体的に触れてきた。結論から言えば、ヒトゲノム計画におけるDNA配列決定で用いられたサンガーシーケンシングのような基幹となる決定的方法論がまだ存在していないということである。

それでも、連続切片の電顕を使った撮影によって構築される解剖学的なコネクトームは、方法論的には現実性、着実性がある。ただ、画像解析の数が多く、複雑過ぎるがゆえに、高スピードで正確に行えないというような問題がある。しかし、これは、計算速度やマシンラーニング、あるいは人間の目を用いるなどの対策で、時間をかければ、可能であるという段階になっている。もちろん、現状では、その「時間」が、我々が考える常識的な時間内でないので、以前として小さな場所での部分コネクトームの理解に努力しているという段階である。相補的な方法論として、古典的な神経回路研究法や、新しいコネクトミクスの開発が盛んに行われている。

一方、機能的脳マップ作成の道具として中心的に活躍しているfMRIは、神経活動を直接見ているものではないので、ニューロン、あるいは更に小さなシナプスレベルまでの解像度を達成することは不可能である。これは、大きな問題であり、解剖的なコネクトームの情報との融合を目指す上で、乗り越えなくてはいけない根本的な課題である。マウスなどの実験動物では、様々な遺伝子操作を利用した方法論、例えばカルシウムイオンや膜電位の変動を観察できる蛍光タンパク質遺伝子の導入などが利用できるが、汎用性を高めるために更なる改良が必要であろう。また、それを達成するためには、顕微鏡技術や解析法の開発も欠かせない。特に、望まれるのは、非侵襲でありながら、脳全体の中で生じる真の神経活動を個々のニューロンのレベルで、そのコネクトームと同時に観察できるような決定的な方法論の出現であろう。また、ミクロのコネクトームとマクロの脳マップの間のギャップをつなぐような革新的方法論の開発が望まれる。

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巨大プロジェクトの説得

大きな規模の予算を使って研究推進するとなると、とかく反対する人々がいるのは、世の常である。つまり、プロジェクトが、科学者コミュニティのみならず、政治的、経済的、そしてパブリックに理解、支持されるのか、という点が大変重要になる。次に、科学的観点とは別の側面から、BRAIN Initiativeの課題を考えてみたい。


(その4)科学者コミュニティを説得できるか

2012年4月、Columbia Universityにおいて、MIT(現、プリンストン大学)のSebastian Seung博士(参考:コネクトームへの挑戦 (6) アプローチ可能な脳:網膜の世界)とNew York Universityの神経科学者Anthony Movshonの2人を中心としたディベートが開催された。Seung-Movshonディベートと呼ばれるほど有名になったこの討論会は、立場の異なる神経科学者の間での代表的な論点が討論され、その模様は、YouTubeでも公開されている。https://www.youtube.com/watch?v=q4KrhDZQ088

Seung博士は、コネクトームで、脳が大変よくわかるようになるというような推進派である。一方、「反コネクトーム」の立場を取ったMovshon博士は、コネクトームを研究するということの必要性は認めながらも、それだけではすべてはわからないので、コネクトームに多くの研究費を振り分けるのはやめるべきだという立場だ。つまり、コネクトームのみに研究費を費やすことで、多様な研究分野に研究費が回らなくなって、多くの神経科学者の研究費が削減される危険性を指摘している。

このような状況が生まれる場合、プロジェクトの内部の研究者も外部の研究者も、Win-Winの心理状況になるような配慮が肝要である。そのためには、プロジェクト作製にあたっては、議論をオープンにして、外部研究者の意見も聴取する。更に、プロジェクト実行にあたっても、すべてに透明性を確保することが大切になってくる。その意味で、Seung-Movshonディベートのような賛否両論を公開して議論するような機会を設けることは重要であると思う。

ここで、改めて確認しておきたいのは、「コネクトーム」「脳マップ」という言葉には、ふんだんにキャンペーン的な要素が含まれているということだ。ヒトコネクトームプロジェクトでは、実際にやっていることは、コネクトームではないのに、コネクトームという単語を使用している。ここ最近は、研究申請や研究に「コネクトーム」と入れておけば、魅力的に見えるといった風潮があることには注意していかなければならない。

特に、大きな予算が動くプロジェクトは、時に予算獲得の「方便」であることもある。目標を標榜し、それを対外的に宣伝することで、巨大な研究費を動かす。ところが、実際は多数の小さなプロジェクトを養うのが目的というようなことが、研究者コミュニティで歓迎されるという現実的プロジェクトに陥る可能性もないではない。目標の曖昧さや、研究戦略の科学的な説得性の弱さ、決定的方法論の欠如は、研究内容がいろいろな方向に分散する余地を残しており、研究者のリアリズムとプロジェクトの夢ある理念が対峙するという懸念は存在する。


(その5)世の役に立つか?
コネクトームや脳マップの作製が、医療など社会にある問題の解決につながるのか?創薬や治療法の開発にどれほど役立つのか?新しい産業が生まれ、ビジネスになるのか?人々の雇用が増えるのか?経済波及効果はどれほどか?

コネクトームや脳マップ作製に集中的に研究費をつぎ込むより、うつ病、統合失調症、アルツハイマー病、パーキンソン病、自閉症などの社会的な負担の大きな問題の研究と治療法の開発に、直接全力を挙げた方がよいのではないか、という意見が、こうした疾患を研究している研究者を中心にあるのは現実だろう。しかし、コネクトームや脳マップの成果は、結果として、うつ病、統合失調症、認知症などの疾患や自閉症などの発達障害を、最終的に神経回路レベルで、より深く理解できる可能性があるという点で、決して、無駄ということにはならないと予想される。また、頻度の高い疾患を理解するのと同様な分析手法で、頻度の低い精神神経疾患の理解にも同時に活用できるだろう。つまり、このようなデータを活用することで、これらの疾患の神経回路レベルでの診断が可能になり、個々の症例を深く理解することで、個別医療や創薬に活用できるかもしれない。

また、これまでにない情報を使って、脳に関わる全く新規なビジネスが出現する可能もある。特に、教育分野、神経経済学と結びついた商業活動、法廷の場での利用などは、その萌芽的なアイデアが既に散見される。しかし、現時点で、「儲かるビジネス」が簡単に想定できるのなら、多くの人が今すぐにでも開始するに違いない、という意味で、更なる推測はここでは控えておきたい。


(その6)納税者は納得するか?
一般に脳科学は、科学の分野の中でも、科学コミュニケーションやアウトリーチの対象として理解を得やすいという特異な分野になっている。学校教育の現場だけでなく、多くの大人の関心の対象になりやすいようだ。それは、脳や心の不思議というのが、ほとんどの人の知的好奇心を呼ぶからであろう。また、社会的な負担が大きい様々な精神神経疾患の解決に向けてのパブリックの関心については、説明するまでもない。それは、書店や図書館において、多数の脳関係の本が並べられ、実際によく読まれていることからも明らかであろう。

このことは、脳科学について、ニセ科学の範疇に属する話題が社会に広がる危険性を持っているといえるだろう。特に、脳科学の統計学的な有意性に基づいた科学的議論は、しばしば完全で断定的な知見としてひとり歩きして社会に流布するなど、大きな問題が生じやすい。科学には、教科書に書いてある事項のように、比較的、安定した事実と認識されているものもあるが、脳科学の場合、研究の性格上、白黒付けることができない「グレー」な事項というのが多いのである。こういう脳科学の特徴も含めて、正しい脳科学や神経科学のパブリックへの啓蒙は、このような巨大なプロジェクト実施にあたっては積極的に行われるべきである。

大切なのは、脳についての基礎情報が飛躍的に増えれば、脳科学特有の曖昧さが、科学的な確固とした根拠に基づく、より真実に近い知見として、社会に提供できるようになる機会が増えてくることだ。特に、ニセ科学と科学を見分ける「検証可能性」という点から言えば、コネクトームや脳マップというようなビッグデータは、証拠に基づいた検証を可能にするデータとして将来的には活用できるかもしれない。


(その7)実施してもよいのか? 

ヒトES細胞を用いる研究は、米国においては、主に宗教的な理由から、保守的な共和党の議員や支持者を中心に、反対論がある。ところが、民主党のオバマ大統領の提唱した脳研究については、共和党議員の積極的支持者も多く、ヒトES細胞を使う再生医療、創薬研究に見られるような極端な反対論はないといってよい。また、米国においては、バイオ系の研究や教育ではしばしば顕在化してくる進化論的世界観(対、創造説あるいはインテリジャント・デザイン)についての議論も、脳科学の研究に関する限りはあまり関係ないようだ。逆に、宗教、瞑想などを、脳科学から理解しようとする研究には協力的な宗教関係者も多い。つまり、オバマ大統領のBRAIN Initiativeは、政治的な意味では、非常に順調なものであると言ってよい。

動物を使った実験については、通常の生物医学研究と同じ倫理的観点はあるだろう。しかし、神経科学の場合、サルのような高等動物を使う必要性もある。更に、行動観察においては、実験動物が覚醒した状態での研究も必要になることから、動物実験倫理的な観点からの議論は深刻である。この点で指摘しておきたいのは、中国との関係である。最近も、マカクサルにCRISPR-CAS9を用いたゲノム編集技術を適用したという研究が発表された(http://www.cell.com/abstract/S0092-8674%2814%2900079-8)。サルを用いたこのような技術の利用は、米国内から中国に移りつつあるようだ。MITを始めとして、米国の脳関係の先端研究機関が、中国の研究施設との関係を深める理由は、実はこういったところにもあるのかもしれない。

脳研究の倫理的観点は、むしろ、このような研究が推進され、実際の結果が出てきた時、想像以上に大きな問題になることが予測される。ヒトのデータの収集にあたっては、個人情報の扱いなど、ゲノム情報の収集と同様な生命倫理が問われる。また、知能などの知・情・意とコネクトームの問題、コネクトームの男女、人種差などの問題、法廷の場での証拠としての脳マップの利用、脳マップと対応させることで思考内容を推定する装置、新しいニューロン刺激法によるマインドコントロールなど、これまで想定されなかった倫理的な問題が噴出することは容易に予想できる。しかし、こういう倫理的問題が生じるからといって、研究を停止するという議論は現在のところはほとんどないようだ。

脳科学の未来:今が大きな転換期
今回議論したように、様々な課題や問題があるものの、コネクトームや脳マップは、脳科学研究推進の基礎情報となるものである。反対論があっても、これらの情報は、次世代の研究者への財産にはなるのではないか、という見方は大方のコンセンサスであろう。一方で、今を生きる研究者からは、こういうプロジェクトに多大な研究予算を使うのは、研究の多様性やリスク分散の観点から、積極的に支持できないという感情論がでているのも事実である。ただ、現実には、研究費が増えることが話題になる分野には、多くの研究者が関心を持ち始め、その分野に研究者が更に集中するという誘導効果があるのは世の常であろう。まさに、一種の「バブル」が生じ始めている段階である(そして、バブルははじける可能性もある)。

世界的に見た場合、米国のBRAIN Initiativeに対応するものとしては、ヨーロッパ共同体EUのHuman Brain Project(https://www.humanbrainproject.eu/)が規模の大きなものである(図3)。また、中国のBraintome (http://www.brainnetome.org/en/)を始めとする様々な研究機関の脳科学研究は、予算的に恵まれ、米国でトレーニングを受けた研究者を多数集め、今後の飛躍的な発展が期待される。韓国では、Center for Functional Connectomics (http://cfc.wci.re.kr/english/portal.php)などが設置され、脳科学の研究活動が盛んになりつつある。その他、イスラエル、オーストラリア、シンガポール、他のBRICs諸国など、米国での動きに刺激を受けた脳研究が世界各地で始まっている。ただ、このような巨大な計画の常として、関係国の経済や政治状況に影響を受けやすいのも現実だ。例えば、EUのHuman Brain Projectの中核プロジェクトの1つであるBlueBrain(参考:ビッグデータ(2)脳科学データリソースの充実)は、EUには加盟していないスイスを拠点としている。2014年2月初め、スイスで行われた移民規制に関する住民投票の結果について、EUが懸念を示していることから、EUのHorizon 2020 (http://ec.europa.eu/programmes/horizon2020/)の支援を受けるこのプロジェクト進行にも影響を与える可能性が生じている。

一方、日本でも脳科学についての同様な研究計画は策定されている。しかし、世界の脳研究のこのような流れを紹介した米国で目にする英文記事の中では、日本の対応プロジェクトについて記述されていることが極めて少ない。少なくとも、筆者は個人的にそのような体験をしばしばしており、ショックを受けることがある。日本にも多くの優れた確立された脳科学研究施設、大学があり、卓越した脳科学者、神経科学者や、将来を担う若手研究者がいる。ところが、脳科学の転換期にあるというグランドデザインの点で、欧米からみて埋没している状態になっているのではないか、危惧されるところである。

ここでは具体的には論じないが、日本の神経科学研究においても、日本の学術界、科学技術行政の問題としてしばしば指摘されているのと共通する問題があるようだ。特に、革新的な技術を開発するために必要な他の科学分野との協力関係や人類全体への貢献という国際協力、科学外交の視点を忘れてはならないと思う。日本国内でのヒトゲノム計画の担当研究など、過去の大型バイオ系プロジェクトについては、経過と貢献度の検証と分析が多くの識者によってなされ、多様な批判があったのは周知の事実である。脳、神経科学研究推進においても、そのような過去の大型プロジェクトにおける反省を踏まえての実施が望まれる。そして、脳科学研究が、「アポロ計画」や「ヒトゲノム計画」のように夢ある人類にとって特別なプロジェクトであることが、もっと国民、特にあらゆる分野の科学研究者に認識されなくてはいけない。

こんなエピソードを最後において、この寄稿の終わりとしたい。ちょうど5年前になる2009年、筆者は、日本の神経科学系の某学会で、コネクトームとコネクトミクスに関する公開討論を含めたシンポジウムを開催するように要請した。ところが、これからの脳科学の未来を考える上で、大きな転換点となる特別な意義があるものとは、学会関係者にはなかなか理解されなかった。その数年後、「コネクトーム」という言葉は、世界的に広く使われるようになったのである。脳科学、神経科学は、今、大きな転換期にある。

(次回のブログの更新は、11月上旬を予定しています。)

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今年も8月終わりということで、来年度(2015年)の文部科学省の概算要求が公表されました。脳科学研究戦略推進プログラム・脳機能ネットワークの全容解明プロジェクトとして、前年度から16%増加の64億円あまり(6,367百万円(前年度5,483百万円))の予算が要求されています。

具体的には、項目10の「科学技術・学術政策局、研究振興局、研究開発局」の資料をご覧になるとその詳細がわかりますが、参考のために、その一部のポンチ絵だけを下に置いておきました(著作権法第13条)。
平成27年度文科省概算要求等 http://www.mext.go.jp/a_menu/yosan/h27/1351647.htm
brainsmall


「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト」(通称、「革新脳」)については、以下に簡単なまとめがあるので、参考にしていただきたいと思います。
http://www.jnss.org/140630-01/

さて、私は、2014年1月から3月まで、日経バイオテクに「脳科学の未来」と題する連載記事を書かせていたできました。
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1970798.html

その最終章で書いたのは、批判であり応援である以下のような文章でした。しかし、実際には、現時点(2014年夏)でも、その状況はそれほど改善していないという印象を受けています。少なくとも、私には、日本の脳プロからは、例えば米国のBRAINイニシアティブがしばしば引き合いに出す「アポロ計画」「ヒトゲノムプロジェクト」に匹敵するものとして実行しようとする意欲が伝わってこないのです。
「日本でも脳科学についての同様な研究計画は策定されている。しかし、世界の脳研究のこのような流れを紹介した米国で目にする英文記事の中では、日本の対応プロジェクトについて記述されていることが極めて少ない。少なくとも、筆者は個人的にそのような体験をしばしばしており、ショックを受けることがある。日本にも多くの優れた確立された脳科学研究施設、大学があり、卓越した脳科学者、神経科学者や、将来を担う若手研究者がいる。ところが、脳科学の転換期にあるというグランドデザインの点で、欧米からみて埋没している状態になっているのではないか、危惧されるところである。」

私は、日本の脳科学を、本当に意欲的に進めるなら、概算要求している60億円の倍くらいを、最初に出して、人材や施設の基盤を強化するのに使う必要があるのではないか、と思うのです。米国のように基盤があれば、少しずつ増やしていけばよいですが、日本の場合は基盤(特に人材)が弱いのですから、この辺を最初にやると効果的であると思います。

今回は、その「脳科学の未来」の第3回「BRAIN Initiativeを読み解く」の部分を、このような日本の脳科学発展の議論のきっかけとするために、若干、手直しして公開しておきたいと思います。ちなみに、NIHのBRAINイニシアティブとNSFの関連プロジェクトのホームページは以下です。

NIHのBRAINイニシアティブ http://www.braininitiative.nih.gov/

NSFのBrain研究 http://www.nsf.gov/brain

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「脳科学の未来」第3回「BRAIN Initiativeを読み解く」(日経バイオテク記事に追加)
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潤沢な民間財団
これまで2回にわたって、「コネクトームへの挑戦」と題して、脳科学の未来について説明してみた。ここで、科学・技術の解説は、一休みして、少し違った角度から、米国を中心とする脳科学の未来について考えてみたい。ファンディングのあり方、科学技術研究体制の観点からである。

これは、脳研究だけの話だけではない。米国のバイオメディカル研究で特徴的なのは、民間財団の力が非常に大きいということだ。民間財団は、それぞれの財団の趣旨に従って、特定疾患の研究、リスクのありすぎる研究、ヒトES細胞のように宗教的・倫理的議論のある研究など政府研究費が支援しない、あるいはできないようなところに研究費を自由に機動的に配分できる。そして、Howard Hughes医学財団(HHMI )などに代表されるように、この低金利時代にあっても驚くほどの資金力があるのだ。これは米国社会に特有な大富豪の存在、寄付税制、そして宗教といった複合的な社会背景などから、こういう伝統が形成されたということだろう。オバマ大統領と米政府が打ち出した今回のBRAIN Initiativeの特徴の1つとして、このような民間財団の力を存分に活用して協力させようというのが特徴になっている。
3-Figure1


今回のオバマ大統領BRAIN Initiativeの基本コンセプトのきっかけとなったのは、Kavli財団の発案だといわれている(詳しくは、http://www.kavlifoundation.org/)。Kavli財団は、センサー部品メーカーの創業者であり、2013年11月に亡くなったFred Kavli氏によって設立された財団である。米国のColumbia大学やKavli氏の故国であるノルウェーなどの大学に、天体物理学、ナノサイエンス、理論物学、そして神経科学の研究施設を設置しているほか、これらの分野にKavli賞を出したり、シンポジウムなどのミーティングの支援をしている。特に、BRAIN Initiativeの中核ともなる「Brain Activitiy Map (BAM)」について意欲的なのがこの財団である(http://www.kavlifoundation.org/brain-initiative)。これについては、次回の寄稿の中で、更に説明したい。

こうした民間財団の中には、既に科学プロジェクトとして、大量の脳科学関係データを創出しているものもある。代表的なのが、西海岸シアトルにあるAllen脳科学研究所だ(Allen Institute for Brain Science、詳しくは、http://www.alleninstitute.org/)。マイクロソフト社の共同創業者の一人であるPaul Allen氏の脳科学への興味から2003年に設立されたAllen脳科学研究所は、脳神経科学者に使える有用なリソースを無料で公開している。神経科学者の間で最もよく知られているのは、Allenブレインアトラスであろう(詳しくは、http://www.brain-map.org/)。初期のプロジェクトとしては、マウス脳で発現している遺伝子のin situハイブリダイゼーション用のプローブを作製し、それを自動化した装置で、脳など神経系の連続切片を使ったin situハイブリダイゼーションを行い、それらの画像をコンピュータで整理したデータベースを作製し、オンラインで公開してきた。特に、連続切片という多量の画像をどのように公開するか、という技術において、マイクロソフト社と関係した研究所であることを遺憾なく発揮している。更に、ヒト脳や発生段階のマウスなどでの発現マップを作製したり、コネクトームの基礎となる情報なども新たに開始した。また、神経科学研究コミュニティに役立つ様々な遺伝子操作マウスを多数作出している。例えば、脳で発現する様々な遺伝子に組み換え酵素Creなどを組み込んだドライバーライン、そしてそれを検出したり利用する様々なレポーターラインを作製してきている。これらは、マウスの系統を多数維持ししているJackson研究所を通じて、研究者コミュニティが容易に入手できるようになっている。

更に注目すべきは、Allen脳科学研究所が、認知脳学者Cristof Koch博士、更に大脳のコネクトミクスを開始したClay Reid博士をリクルートし、更に意欲的な研究を行おうとしていることだ。Koch博士は、脳科学に大きな関心をいだいたDNA二重らせん構造の発見で有名な故Francis Crick博士との交流をきっかけに、「意識」や「クオリア」についての実験的アプローチを試みる研究者として著名である。Reid博士は、大脳の視覚野を研究するHarvard大学メディカルスクールの教授であったが、Harvard大学では十分な研究施設が用意できないことから、Allen脳科学研究所に移籍したという。この2人の卓越した神経科学者のもとに、250人程の科学者や技術者が集まり開始されたプロジェクトが、「MindScope」である。MindScopeでは、特に、マウス大脳の視覚野に注目したコネクトームとコネクトミクス、更に神経活動の網羅的観察、理論的解析までが実施される予定である。大脳ということで、難しさも伴うが、野心的なプロジェクトである。

Howard Hughes医学研究財団(HHMI)は、全米最大の基礎医学領域の民間財団で、その援助した研究者からノーベル賞受賞者などを多数輩出している(詳しくはhttp://www.hhmi.org/)。例えば、2013年にノーベル賞を受賞した神経科学者Tom Sudhof博士は、HHMIにサポートされた研究者であった。基金規模は、約160億ドルで、年間8.25億ドルを生物医学分野に投資している(2011年)。これは科学技術全分野の研究をサポートしている日本の科学技術振興機構JSTの年間予算にも相当するような規模である。また、生物医学系の教育や普及にも積極的である。HHMIが、2006年、首都ワシントン近郊のヴァージニア州に建設した研究施設Janelia Farmでは、コネクトミクスなどの脳関連研究が意欲的に実施されている(詳しくは、http://janelia.org/)。特に、小さな研究グループを多数作り、グラント申請などに煩わせることなく、共同研究を盛んにする運営方法は、生命科学系では今までなかった科学研究施設の姿としても、注目されている。

BRAIN initiativeに積極的なもう1つの研究所は、カリフォルニア州サンディエゴ近郊ラホヤにあるSalk研究所である。1963年に設立されたSalk研究所は、生命科学系に特化した卓越した研究所であり、生物医学の分野では設立半世紀を経た老舗の研究所であるが、神経科学者も多数在籍している。神経科学研究では、世界的に評価が高いカリフォルニア大学サンディエゴ校とも近接している。Salk研究所が、「Dynamic Brain Initiative」と名づけたプロジェクトもこのような環境で企画されたものである(詳しくは、http://www.salk.edu/campaignforsalk/brain.html)。

このような民間財団は、NIH研究費などの政府系のものとは使い勝手が違うというところに特色があるのだが、オバマ大統領のBRAIN Initiativeでは、政府系のプロジェクトとの協力的な関与がことさら強調されている。研究者コミュニティに対しても、頻繁にシンポジウムの開催を支援するなど、より多くの研究者の役に立とうとする意欲が極めて高い。思い起こすと、ヒトゲノム計画では、NIHなどが主導した公的なプロジェクトが初期には先行していた。ところが、1990年代後半になると、Craig Venter氏が設立した民間会社であるCelera Genomics社が、独自の方法を用いて、先行していた公的プロジェクトを追い越してしまったということもあった。公的なヒトゲノム計画の「失敗」とも言われる過去のこのような経験も、民間との協力関係を重視することに関係しているのだろう。もちろん、次項で議論するような米国財政状態の問題とも関係しているのは想像に難くない。

Sequester問題、軍事研究
BRAIN Initiativeを提案したオバマ大統領であるが、米国の財政は危機状態にある。広い分野の予算を一律削減するいわゆるSequester問題で、NIHの研究費なども厳しい状態にあるのはよく知られている。2013年秋には、共和党を多数派とする議会と民主党の大統領の対立から、政府機能が一時停止するなどの事態に落ちいった。これは、医療や製薬会社とも密接に関係する健康保険制度についての政策上の相違から生じたものである。いずれにしても、限られた財政の中で、支出の機動性が失われているのが実情だ。それでも、2014年1月15日、オバマ大統領は、BRAIN Initiative予算も含むSequester削減分の補正予算案に署名し、BRAIN Initiativeの研究費募集が本格化している。ただ、まだ準備段階という認識であり、BRAIN Initiative関係の研究費の総額は小規模なものである。ちなみにNIHで現在募集しているBRAIN Initiative初めてのグラント申請は、本年3月24日締め切りで、海外研究機関からの応募も可能になっている。具体的には、(1) 新しい大規模ネットワークレコーディング法の開発、(2) 神経回路操作の方法開発、そして(3) 神経活動と行動の3分野への応募が可能である(図2)(更に詳しくは、http://grants.nih.gov/grants/guide/rfa-files/RFA-NS-14-007.html)。今回は、革新的な神経活動検出と操作に関する方法論の開発に重点が置かれており、これらの方法論の開発が今後のプロジェクト展開の鍵を握るとの判断からであろう。これとは別に、NIHの通常の外部研究費に加え、いわゆるハイリスク研究という特別枠で、BRAIN Initiativeの基礎となる研究を大きく支援していることからも、この分野に特別な推進意欲があることがわかる(詳しくは、https://commonfund.nih.gov/highrisk/index)。
3-Figure2


ところで、今回のBRAIN Initiativeには、医学系研究を総括するNIH、基礎科学研究を支援するNSFの他に、国防高等研究計画局DARPAが関与している。DARPAは、軍使用のための新技術開発および研究を行う米国の国防総省の機関である。つまり、このプロジェクトは、軍事研究の性格も持つ。DARPAは、歴史的には、インターネットのひな形となるARPANET、そして全地球測位システムGPSを開発した機関でもあり、その研究結果は、民生用用途にも多大な貢献をしてきている。BRAIN Initiativeでも、その結果として、「インターネット」や「GPS」に相当するような世界を一変させる革新的技術が開発される可能性もある。そんなプロジェクトのひとつとして、2013年秋に、DARPAが打ち出したのが、「SUBNETS」と名付けられたものだ(詳しくは、http://www.darpa.mil/NewsEvents/Releases/2013/10/25.aspx)。SUBNETSは、Systems-Based Neurotechnology for Emerging Therapiesの略で、脳に神経活動を検出したり、操作するデバイスを埋め込むことで、負傷兵士や精神神経疾患の患者を治療しようというプロジェクトである。軍事研究というのは、日本国内では、特にバイオ関係の研究では、感染症など一部を除いてはあまり馴染みがない。米国の場合、現実に軍事活動が展開されており、また社会的に影響力のある退役軍人も多いので、大きな社会的意義を持っており、有力大学でも軍事研究に相当する研究が実施されている。これは、米国の科学・技術研究の一側面でもある。例えば、脳研究関係でいえば、負傷した軍人の治療(含む再生医療、BMI治療)、戦闘活動に伴うPTSDなどの扱い、更には兵士の睡眠や注意力の制御といった戦闘活動を有利に導く薬物や道具の研究などがある。DARPAのSUBNETSは、このような実情から生まれたものだが、民生用用途への応用にも期待がかかる。

追記:オバマ米大統領は、8月終わりに、DARPAの新しいプロジェクトとして、ElectRx (Electrical Prescriptions)と名付けたプロジェクトの開始を発表した。
http://www.darpa.mil/NewsEvents/Releases/2014/08/26.aspx

財政的な厳しさから、現在、宇宙開発などを行う米航空宇宙局NASAなどは、個々のプロジェクトの選択に大きな議論が沸き起こっている。そんななか、NASAの場合、独自の宇宙開発を推進している中国との交流は政府レベルで禁止されている。軍事研究の性格を内在する米国のBRAIN Initiativeが、現在の世界情勢の中で、国際協力について、どのような方向を目指すかは流動的であるが、少なくともヨーロッパ共同体(EU)の対応プロジェクトであるHuman Brain Projectとは、密接な協力関係がある(詳しくは、https://www.humanbrainproject.eu/)。もちろん、科学者としては、ゲノムプロジェクトなどに見られたように、世界全体の科学研究コミュニティーにオープンな方向を目指したいと考えるのが常であり、学会などのコミュニティでは米中間の脳科学研究の交流は盛んである。こうしたなか、日本が、世界的に重点が置かれつつある脳科学研究の動向にどのように貢献できるのかは、国際的巨大科学プロジェクトである線形加速器などと同様に、国家安全保障の面からも、神経科学者の間だけでなく、パブリックを含めてもっと広く議論されるべき喫緊の課題であると思う。

追記:最近のHuman Brain Projectの動きについては、8月初旬に書いた拙ブログを参照。
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1997601.html

脳科学の未来:研究体制についての私見
ある分野、例えば脳科学の分野に現在より多くの研究費を増加させる場合には、その分野の研究費総額を増加させればよいわけである。しかし、財政に上限がある以上、単純な増加には限界がある。今回、説明したように、財源が公的資金とは全く違う「民間財団」や、同じ公的資金でも「軍事」といった異なる説明責任が可能な分野の予算を振り向けるというのも方法である。

もう1つの方法は、脳科学とは異なる分野と分類されてきた科学研究を、脳研究に誘導して、全体として脳研究を盛んにするというやり方だ。EUのHuman Brain Projectでは、例えばコンピューターサイエンスの研究分野に脳科学を持込み、これまでコンピュータサイエンスに使われていた予算を、脳研究に用いるということが積極的に行われている。脳科学というのが、医学研究にとどまらず、他の科学分野の知識や技術、更には心理学、哲学、経済学、言語学といった文系(日本的にいうなら)をも含めた総合的な学術分野であるというのは改めて説明する必要がない。また、技術開発という面からも、脳とは全く関係ないような科学技術分野に、潜在的に大きな可能性がある。そのためには、こういう異分野との交流を盛んにしなくてはならない。

この点と関係して、米国の脳科学、神経科学を考える時、大学での教育システムのあリ方についても議論しておかないといけない。米国の大学教育システムの場合、主要な大学は、リベラルアーツ、つまり教養を重視している。そもそも日本的な理系、文系という明確な区別があまり存在していないといってよい。またそれぞれの学生が、理系と文系科目の2つの専攻を持つことも多い。このような教育システムだと、総合的な学術分野としての脳科学に興味を持つ学生や研究者が育ちやすいのは想像できる。日本国内の脳科学の推進には、日本の大学や大学院の体制を維持するにしても、全体として教育システムを見なおしていかないと、脳科学の盛んな米国のような研究環境を作ることは難しいと思う。

巨大科学と小さな科学
BRAIN Initiativeは、人類月面着陸計画やヒトゲノム計画に相当するような巨大科学なのだろうか。確かに、ヒト脳の脳活動マップ作製というそのゴールは、巨大科学のように見える。そのゴールへの過程では、巨大な設備を必要とするような段階もあるだろう。しかし、一方で、例えば素粒子物理学における線形加速器のように、ある特定の場所に集中的な超巨大な装置を設置するという形の研究になることはありそうもない。ヒトゲノム計画では、米英を中心とする各地にセンター的なものを作り、その目標を達成しようとした。しかし、一方で、独自の方法論を持ったCelera Genomics社の民間プロジェクトが、そのゴールに早く到達してしまったという歴史もある。つまり、ひとたび革命的な方法論がでてくると、スピードが跳躍的に速くなることもある。特に、米国では、真に有望なものが出現すると、短期間のうちにそれを軌道にのせて大規模にする活力がある。

ゲノムのDNA配列の決定は、技術者のチームや自動化された機械が、淡々とデータを積み上げていく工場のような作業である。そして、そこには、仮説もない。単純なデータを蓄積、解析していく科学の姿である。これと同じように、コネクトーム、脳マップ作製というのも、仮説を立てて、それを実験的に試すという科学研究ではない。つまり、仮説を伴わない科学データの蓄積である。このような科学は、創造的な研究者には退屈であり、また次世代の研究者を育成するという観点からも、決して望ましいものではないだろう。つまり、ゲノムプロジェクトの初期において、このような大型研究プロジェクトの功罪について指摘されたのと全く同じ議論も出てくるだろう。特に、電顕を使ったコネクトーム解析のプロジェクト(コネクトームへの挑戦(3)参考)は、このようなステージになってきている。

脳神経科学は、果たして、巨大科学である必要があるのだろうか。神経科学では、個人あるいは少人数で集中的に研究して、好奇心に基いて、画期的な知見を出そうとする研究者も依然として多い。このような場合、仮説を立てて、それを実験的に検証するという仮説検証型科学研究が主流である。また、科学研究の常として、こうした研究の過程で、偶然による発見(セレンディピティ)もしばしば起こる。これは、古きよき時代の郷愁のようなものかもしれないが、神経科学研究の性格からするとある意味で当然の姿勢であり、このような研究から革新的な知見がもたらされてきたのである。仮説によらない大規模データ収集の科学を目指そうとする方向は、こういう研究姿勢とはどうしても対立してしまう。

いずれにしても、コネクトミクスや神経活動の検出など、鍵となる研究分野で、これ以外の方法は考えられないという「絶対的な方法論」が現時点では確立されていないのである。プロジェクトの初期においては、このような少数精鋭の研究を中心としてみるのが正解かもしれない。BRAIN Initiative委員会の報告書や最初の研究費公募の要項(上述)を見ると全体としては、こちらに傾いているのが実情である。改めて、このフレミングの名言を噛みしめたい。

あることについて、最初の進展を行うのは孤独な働き手だ。細かなことはチームでやれるかもしれない。しかし最初のアイデアは、個人の企画、考え、認識からやってくるものだ。
アレキサンダー・フレミング

さて、日本の脳、神経科学を考えるとき、こういう点については、科学の形態という根本から、これまでタブーと思われたことも含めて議論してみる必要があるのではないだろうか。例えば、日本の科学研究でこういうビッグなプロジェクトの案がでてくると、崇高な目標が安易な数値目標に陥ってしまう。崇高な目標を持つプロジェクトが体裁を取り繕うために、年度ごとの厚い報告書を作ったりすることを目的にすることや、インパクトファクターに代表されるような評価法が馴染むのか、など。「科学・技術研究とは何か」という根底からの議論が必要ではないか、と筆者は思う。

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(10月始めに、この続きを公開できたらと思っています。)

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米国のオバマ大統領が提唱した巨大脳科学プロジェクトであるBRAINイニシアティブについては、2014年1月から3月まで、日経バイオテクに「脳科学の未来」と題する拙文を連載(6回)し、その一端を紹介しました。

脳科学の未来 https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20131224/173054/
「2013年4月2日、ホワイトハウス。オバマ米大統領が、BRAIN initiativeを発表した(詳しくはこちら)。ケネディー大統領の人類月面着陸計画、バイオ医学系初の巨大プロジェクトとなったヒトゲノム計画。これらにも匹敵する脳、神経科学の巨大科学プロジェクトに取り組むという宣言である。BRAINは、Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies の略であり、英単語「Brain」ではない。最先端の革新的な技術による脳研究がBRAIN initiativeだ。そのゴールは、脳の構造、とりわけ脳を構成するニューロンが作る神経回路や脳が働く時の活動の様子を、マクロからミクロまで完全 に明らかにしてしまおう、つまり「脳マップ」の完成である。」

日経バイオテクの連載の文章は、下記のページからリンクされていますが、今後、時期を見て、アップデートした内容を、このブログサイトで、公開していくつもりです。ご期待ください。(また、関連内容を、掲載させていただくような科学関連雑誌等への投稿も可能ですので、個人的にご連絡ください。)
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1970798.html

さて、今回は、米国のBRAINイニシアティブに対応するヨーロッパ共同体(EU)の大型脳科学プロジェクトであるHuman Brain Project(HBP)についての話題です。

Human Brain Projectのウェブサイト https://www.humanbrainproject.eu/

ヒューマン・ブレイン・プロジェクト(Human Brain Project, HBP)は、Ecole polytechnique federale de Lausanne(ローザンヌ連邦工科大学)の主導で、欧州連合(EU)の資金をもとに、2013年に設立された米国のBRAINイニシアティブに対応するヨーロッパの巨大脳科学プロジェクト(10年間を予定)です。このプロジェクトでは、ヒトの脳がいかに働くかを理解するために、スーパーコンピュータを用いて、最終的にヒトの脳をシミュレートすることを目標としています。プロジェクトでは精神神経疾患の薬物治療のシミュレートを行うため、機能している脳の完全なコンピュータモデルの構築を目指しています。HBPの本部は、スイスのジュネーブにあり、Henry Markram教授(1962年生まれ)がその代表者になっています。

Henry Markram氏のTEDトークのサイト
 http://www.ted.com/speakers/henry_markram

ところが、2014年7月7日に、154名の欧州の研究者(現在は約600の署名)が、このプロジェクトについて、あまりに狭い研究アプローチを取っているため、目標達成ができず、失敗するという大きなリスクがあるのではないか、場合によっては、ボイコットすることになるというオープンレターを提出しました。これについては、英国のガーディアン紙、BBCといった一般メディア、更にNature、Scienceなどでも大きく報道され、私のTwitterでも、たびたび、報道などを、ツイートしてきています(私のTwitter https://twitter.com/yamagatm3)。

この騒ぎのきっかけは、Henry Markram氏が、2014年春のプロジェクト編成において、このオープンレターの中心的人物であるZach Mainen氏(ポルトガル)らのような、思考や行動のような高レベル脳機能を研究する認知科学者をプロジェクトから外したことがあります。 また、計算論的神経科学者であるPeter Dayan氏(University College, London)は、大規模シミュレーションの目的は根本的には時期尚早であると主張しています。既に、HBPから、オープンレターで指摘された内容を検討するとの反応も出されており、何らかの見直しにより、Win-Winのプロジェクトになるのではないか、と推測されます。

Human Brain Projectを懸念するオープンレターのサイト。

取り上げた報道についての多数のリンクがあります。
http://www.neurofuture.eu/

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参考までに、以下に、Human Brain Projectについて簡単に説明しておきます。
なお、以下の記述は、HBPについて記載した英語版Wikipediaのサイトを参考にしました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Human_Brain_Project

HBPや他の関連プロジェクトで得られた技術は、他の研究分野にいくつかの可能性を提供することになる。 プロジェクトは、ヒトの脳とその機能について理解を深め、治癒および脳の発達に関する医学的研究を助けることになる。 例えば、脳モデルは、疾患の特徴や医薬の影響を調べるのに使用することができ、診断および治療方法が生み出されるだろう。 そして、これらの開発により、低コストで高度な医療が提供できることが期待される。 人工的なヒト脳のデザインは、高度なコンピュータチップの開発につながる。例えば、ヒトの脳をモデルとすることで、新しいスーパーコンピューティングおよびエネルギー効率技術の開発が可能になる。 プロジェクトの基盤には、ニューロロボティクス、ニューロモルフィック・コンピューティング、ハイパフォーマンス・コンピューティングも含まれている。こうしたコンピューティングの開発は、データマイニング、通信、家電製品、および他の産業用途などにも影響を及ぼすことが期待される。

戦略目標:これらの6つの分野での情報コミュニケーション技術基盤の開発を行う。
ニューロインフォマティクス
脳のシミュレーション
ハイパフォーマンス・コンピューティング
医療情報学
ニューロモルフィック・コンピューティング
ニューロロボティックス

組織と資金調達
HBPを主導するのは、ローザンヌ連邦工科大学、ハイデルベルク大学、 ローザンヌ大学とその付属病院である。プロジェクトはヨーロッパ26カ国にある135のパートナー機関の研究者の数百人が関わる。その予算は、11億9千万ユーロであり、ECのFuture and Emerging Technologies (FET)というグラントにより援助される。最初の資金調達のためのグラント応募は、2013年11月に締め切られ、結果が2014年3月に発表された。32団体から22のプロジェクトが選ばれている。

サブプロジェクト:HBPは13のサブプロジェクトからなる。
SP1 -戦略的マウス脳データ
SP2 -戦略的ヒト脳データ
SP3 -認知アーキテクチャ
SP4 -脳研究の数学と理論基礎
SP5 -ニューロインフォマティクス
SP6 -脳のシミュレーション
SP7 -ハイパフォーマンス・コンピューティング
SP8 -医療情報
SP9 -ニューロコンピューティング
SP10 - ニューロロボティクス
SP11 -アプリケーション
SP12 -倫理と社会
SP13 -マネージメント
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「私が研究を評価するときの一番の目安は、驚きです。もう一つは腑に落ちること。この2つが、学術研究で大事だと思います。」野依良治

科学研究では、「驚き」を評価することが多い。意外であった。びっくりした。ということです。例えば、体細胞にたった4種類の遺伝子を導入することにより達成された山中伸弥さんらのiPS細胞作製は、「驚き」でした。

ところが、分野が成熟すると、人々が少々のことでは「驚かなくなる」という状態になってきます。要するに、頭で考えて、結果が予想できてしまう。そういうことが増えてくるのです。予想できるようなことでは、人々は驚きません。ですから、そういうことは「評価」が低くなる。その結果、驚かすためには、人をアッと言わせる研究、とんでもないというような研究が必要になってくる。そしてそういう研究がハイプロファイルジャーナルに掲載されるわけです。

幹細胞の研究分野というのは、研究によって、人々を驚かす基準が非常に上がってきている。少々のことでは、人々を驚かすような研究ができない。つまり、幹細胞の研究分野が、多くの研究者が参加するようになり、成熟したことによって、インパクトのある研究、過剰な驚きを求めるような研究が、分野として要求されているのではないか、ということです。

つまり、こういう分野は、理論的に予想できることが多くなってきているわけです。理論的に予想できるということは、既に何らかの法則性、規則性が見つかっており、それを元に結果が予想できるということであります。こういう科学分野というのは、研究分野として成熟して、ある意味で「終わりつつある」のではないか。もちろん、細かい面白いことは沢山あるでしょう。最近もSTAP細胞の論文発表の問題が日本国内では大きく騒がれているようですが、これも、この過剰な驚きを要求されるような分野になってきた幹細胞研究の分野の「終末」のような状態ででてきてしまったものではないか、とふと思ったのです。

つまり、幹細胞研究はもう終末になりつつあるのではないか。個人的には、1992年のことになりますが、Cold Spring Harborで毎年開かれるQuantitative Biologyのシンポジウム「The Cell Surface」で、免疫学での重要な研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進さんが、免疫学が終わったとして、神経科学に移ったという宣言から発表を始められたのが、思い起こされます。この「免疫学が終わった」という感覚に近いものがあるのではないか。

私自身が、幹細胞分野に直接関わっていないので、この「終末」という表現は、幹細胞研究分野の方々には失礼な言い回しかもしれません。もちろん、臨床応用など、医学研究として大切な研究は多く残されていると思います。最近、ニュースなどで報道される幹細胞研究の内容などを見ていましても、その大部分は、臨床応用に関係したものであり、いわゆる基礎研究に相当するようなものは、ほとんど見かけなくなってきています。大学では、主に創造的な基礎研究に相当する部分を重視して研究することが多いのですが、その意味で、幹細胞研究のかなりの部分は、もう民間企業などに移すといった時代になってきているのではないでしょうか。

米国のトレンドとしては、幹細胞研究施設で神経系の研究をしている研究者が、次々とBRAINイニシアティブとの関連を思わせるような領域に移り始めています。これも、幹細胞分野が「終末」に近づいていることを意味しているのかもしれません。幹細胞研究者であるKnopfler博士も、こんなブログを投稿しています。
Multi-Billion Dollar NIH Brain Initiative A Stroke of Genius or Madness?

ルネサンス文化の終末期、絵画では、いわゆるマニエリスムという作風が生まれました。ルネサンス音楽では、私が大好きなカルロ・ジェズアルドが、不協和音や半音階を使ったマニエリスムの音楽を作曲しました。奇異や驚嘆を求める心によって、変わった表現が用いられたということです。今、幹細胞分野の基礎研究というのは、こういう時代になっているのではないか。科学研究を、こんな文化的な見方で、最近の科学の動向や話題など考えてみるのも、また一興かもしれません。

日本国内では、研究者リクルートに関して、コネを利用した人事や、偽装公募、出来レースなど、不透明で不誠実な行為が広く行われています。4月16日の理研CDB副センター長である笹井芳樹氏の記者会見の後、CDBにおける人事の疑問点について、Twitterの方で指摘させていただきました(https://twitter.com/yamagatm3の4/16のツイート参考)。

日本の大学や研究機関における研究者人事において、このような奇妙なことは日常茶飯事であると私は思います。一般論として、なぜ、こうした人をだましたり、隠しごとをするといった不誠実な手法が、研究者リクルートといった組織の運営において行われなければならないのか。なぜ、透明性、公開性のあるリクルートを広く行うことができないのか。これは、日本の学術界、大学や研究所の運営における大きな構造的な問題であると思います。理研CDBにおける問題は、組織におけるガバナンスにも関わっていることから、「科学研究」的な事項とは全く別のこととして、今後、解明、詳細が報告されるべきことであると私は思います。

また、理研BSIのチームリーダーであったThomas Knopfel氏(現、Imperial College London)が、Science誌ウェッブサイトのコメント欄において、理研BSIでの経験を記述していました。その内容は以下です(その後、削除されたようで、現在はScienceのウェッブサイトには残っていません。以下は、4月10日に記録したWeb魚拓のものです。)
http://megalodon.jp/2014-0410-0655-07/comments.sciencemag.org/content/10.1126/science.343.6177.1299

ジャパンタイムズにもKnopfel氏のインタヴューの内容が掲載されています(後半の部分です)。
http://www.japantimes.co.jp/news/2014/04/20/national/stapgate-shows-japan-must-get-back-to-basics-in-science/

テレビインタヴュー:ドイツ人教授「理研は“STAP”以前も改ざんあった」(04/17)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000025285.html

理研は、Knopfel氏の理研BSIにおけるこのような体験についても、その真偽に関わらず、調査し報告するべきであると、私は思います。指摘されることに対して、調査も報告もないというのは、まさに握りつぶしであると判断されることです。

そこで、こういったケースにおいて、どのような調査を行い、報告するか、というのが重要になってきます。ここでは、海外の一流研究機関が、内部の問題にどのような調査を行い、どのような報告書を作製するか、という1つの例を紹介したいと思います。2006年になりますが、理研BSIの現センター長である利根川進氏(MIT)が関わった日本ではあまり報道されなかったのに世界的には広く報道された問題です。この問題について、MITが作製した報告書を一番下にダウンロードできるようにしておきます。組織の中で起きた運営上の問題について、どのように報告するか。利益相反関係などの扱いに注目していただきたいと思います。

「2006年:MIT内の他研究所の教官公募に際して、研究内容が競合しているという理由により、女性研究者に辞退を迫るメールを出したことが問題視され告発された。MITの内部調査は、不適切な内容を認めつつも女性差別の証拠はなかったと報告している。2006年を最後に、ピカウア学習・記憶研究センター所長の職を辞している。」(ウィキペディアより引用)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E6%A0%B9%E5%B7%9D%E9%80%B2

問題の概要と報告書について伝えるネイチャー(ボストン)のブログ
Scathing report about MIT neuroscience released today
http://blogs.nature.com/boston/2006/11/02/scathing-report-about-mit-neuroscience-released-today

これが、MIT内部調査の報告書です。
MITにおける女性研究者リクルート問題の報告書(Pdfファイル)

2014年1月から3月まで、日経バイオテクに「脳科学の未来」と題する連載記事を寄稿させていただきました。以下が個々の記事です。お問い合わせは、こちらまで。
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日経バイオテクには、アカデミック版というのがあって、大学(ac.jp)、政府機関(go.jp)のドメインに所属されている場合は、安価で記事が読めるプランがあるということです。
http://nbt.nikkeibp.co.jp/bio/bta/
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新春展望2014、脳科学の未来とビジネスチャンス:米国の脳研究プロジェクト
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20131224/173054/

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コネクトームへの挑戦 (1) コネクトームとは何か
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140106/173196/

コネクトームへの挑戦 (2) コネクトームのパイオニア達
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140106/173197/

コネクトームへの挑戦 (3) コネクトミクス
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140106/173198/

コネクトームへの挑戦 (4) ヒトの脳の難しさ
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140129/173594/

コネクトームへの挑戦 (5) ゲノム研究でも使われたセンチュウを活⽤
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140129/173595/

コネクトームへの挑戦 (6) アプローチ可能な脳:網膜の世界
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140129/173596/

BRAIN Initiativeを読み解く(1)潤沢な⺠間財団資⾦
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140207/173960/

BRAIN Initiativeを読み解く(2)Sequester問題、軍事研究
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140207/173961/

研究体制について
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140207/173962/

機能的脳マップへの挑戦(1)神経活動を見る
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140225/174370/

機能的脳マップへの挑戦(2)Brain Activity Mapプロジェクト
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140225/174371/

機能的脳マップへの挑戦(3)ヒトコネクトームプロジェクト
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140225/174372/

ビッグデータ(1)ビッグデータの時代
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140310/174674/

ビッグデータ(2)脳科学データリソースの充実
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140310/174675/

ビッグデータ(3)データ共有の時代
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140310/174676/

7つのチャレンジ(1)曖昧な目標と不十分な方法論
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140326/175032/

7つのチャレンジ(2)巨大プロジェクトの説得
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140326/175033/

今が大きな転換期
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140326/175034/
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STAP問題の社会、経済、政治を巻き込んでの、混乱。これが問題であるというのは、間違いありません。「研究者倫理の問題」と「STAP現象が本当にあるのかという科学的関心」という2点が本質的に重要な問題です。更に、これらについての理研の対応、理研の広報を始めとするコンプライアンスとガバナンスの問題、ジャーナルを通じた科学研究発表のあり方、科学者コミュニティのあり方、そしてそれに過剰に反応する社会など、様々な問題が噴出してしまったという感があります。

ただ、米国からですと、日本の状況は、ほとんど目にすることもないので、幹細胞の研究者など、一部の研究者以外には、そんなに大騒ぎするような問題ではないと思います。これで、例えば、「日本の科学技術の信頼が問われている」とか、「大学院教育が信用されなくなっている」とか、そんなことはないでしょう。日本の過去の研究は、このような1つの問題で、すべてがなくなってしまう、なんていう浅い評価を受けているものではないです。私が、米国から日本の状況を見ていて感じるのは、この問題のかなりの部分は、論文の書き方や広報のあり方を含めた「過剰宣伝」にあったのではないか、ということです。

研究者倫理の問題の究明には、やはりメンタルケアも考慮した人権問題というのも大切です。STAP現象が本当にあるのかという科学的検証に関しては、細胞や動物の増殖速度、解析スピードというのが、政治家の決断のように即断できるスケジュールのものではないわけです。培養細胞が倍に増えるのは、半日から1日以上必要である。マウスの妊娠期間が21日、大人になるのが生まれてから40日後というようなスケジュールですと、実験材料を集めるのにも時間がかかる。即断で短期間に白黒つけることはできないわけです。政治や組織の都合と、こういう研究に要する時間的感覚というのは一致するものではないでしょう。

こういう状況の中、情報不足やデマ的な情報から、様々な混乱が生じています。メディア報道の中にもデマがあるという状況です。ただ、このような事態において、一点、指摘しておきたいことがあります。世の常として、悪いものは容易に目につくが、過去における良いものは目につきにくいということです。つまり、こういう混乱の中で、CDBだけの運営に問題があったとか、そういう議論になるのは、何だか奇妙だと、私は感じています。もちろん、過剰宣伝に関わった副センター長などの責任問題は、理研が、どういう形で対応するのかわかりませんが、研究者コミュニティや世間が十分納得できるような形になることは大切だと思います。根本的な原因を考えれば、真偽はともかく研究成果の売り込み過ぎ、ヤラセや演出などを含めて過剰宣伝せざるを得ないような切迫した状況があったということが、もっと理解されるべきでしょう。私は、研究費、人事などの運営、科学研究の政策誘導にあたって、ヤラセ、演出といった不誠実な行為が様々な場面で日常的に行われていることが、日本の科学研究体制における構造的な問題であると思います。いずれにしても、科学研究とは、過去を振り返り「こうすればよかった」と後悔してばかりいるものとは違う。もちろん反省も大切ですが、それ以上に前向きに創造的な研究をすることが最大のプライオリティであるべきだと思います。このことを忘れず、問題を解決するべきだと思います。

ここで、理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター(理研CDB)の設立の経緯について、触れておきたいと思います。戦前から長い歴史のある理研は、戦後、和光の研究所が主に研究を主導してきました。ところが、1990年代の中頃になると、バイオ系では、脳を研究するために設立された脳科学総合研究センター(理研BSI)を皮切りに(正式には、1997年)、本所だけなく各地に、その分野で主導的な役割をする大きな予算規模を持つセンターがいくつか設置されたわけです。BSIができたのは、伊藤正男さんが、当時、日本の学術界のトップにあったのと、米国のDecade of the Brainを真似た「脳の世紀」というスローガンのもとで、東京近辺に作るというのが官僚や政府を説得しやすかったのでしょう。そもそも1990年代の中頃というのは、再生医療なんていう言葉はなかったです。発生、再生なんていうのは、マイナーな分野でした。ゲノムはまだ本当にシーケンシングできるのか、という懐疑論が多かった時代。ですから、脳の研究所BSIができたのです。

CDBの設立は、BSIがモデルだったと思います。岡田節人さんあたりが、そういうものを考えて推進し始めた時に、神戸の地震からの復興、21世紀になるという状況で、政府のミレニアム・プロジェクトの1つとして設立されたわけです(正式には、2000年)。当初は、再生医療というより、複雑系としての発生生物学なんていうとても難しい言葉が設立の理由にあったりしたと思います。それでも、幹細胞とか、再生医療などというような分野が、世界的に盛んになる前に、いち早く、日本に、このような研究施設を設立したというのは、卓見であったと思います。

一方で、先行して設立されたBSIというのは、その立ち上げに大きく関与したグループリーダーという管理者的な研究者が、自分のラボ出身者を優先的にチームリーダーにするというコネ人事を実施したわけです。更に、東大などにもラボを持っていて、BSIに2つ目の稼働ラボを持つという、これもまたやり放題とも言えるような状況にしたわけです。こういうラボを複数持って、規模だけを大きくし、ポスドク、大学院生、技術員などを多く抱えれば、沢山の論文が発表され、研究が盛んになっているように見えます。BSIと東大で2重発表すれば、どちらの機関にとっても、業績が増える。報道発表が増えて、年度末の報告書が厚くなる。ですから、官僚や事務関係などの受けはよく、研究費が更に増えるというような拡大のサイクルに入ったのです。もちろん、こういうやり方やあり方に、疑問を感じる研究者も、東大を始めとして全国に多数いました。有利になるのは、その関係者だけになったわけですから、おそらく、こういう状態を見てハッピーに感じていたのは、このグループの内部にいる構成員だけだったのではないか、と思います。更に、こういう大きなグループになっても、研究代表者は一人というような状態では、十分な研究管理ができないのではないか、という指摘もあったわけです。そして、BSIの場合、遺伝子スパイ事件など、大きく報道されて世の中に見える形ででてきたスキャンダルもあれば、センター関係者は知っているのに、世の中にはほとんどでてこなかったスキャンダルもあったりするわけです。ちなみに、BSIは、今回、学位論文の審査体制など別の問題が明るみにでている早稲田大学とも連携しています。このBSIと早稲田大学の連携体制のあり方についても、関係者の間では、疑問の声が上がっているのです。研究体制の構造的な問題ということを議論するなら、BSIこそ、大きな欠陥があるのではないでしょうか。

京大関係者の主導でできたCDBの運営というのは、基本的には、BSIのこうした運営に対する反感があったのではないでしょうか。CDBでは、センター長やグループリーダーのラボ出身者は内部にラボを持たせない(もちろん、一部の人事は、コネ人事だという判断も可能ではあったが)。そして、京大などの大学のポストは、客員という形で大学院生のリクルートの目的で残すが、京大で稼働しているラボは物理的に消滅させる。つまり、BSIのグループリーダーがやっていたことをやらない、ということがとても重要なことだったのです。例えば、京大再生医科学研究所の笹井芳樹教授が京大のラボを完全に閉めて、その同じポスト(再生誘導分野)の後任にNAIST教授だった山中伸弥さんが着任したというのは、こういう理由によるのでしょう。

その結果、CDBは、今回の問題の前には、研究者コミュニティでは、いくつかある理研のセンターの中では、運営が高く評価され、クリーンなイメージがあったのです。そして、スキャンダルというものがないという、そういうクリーンなイメージがあったからこそ、皮肉にも今回の当初の過剰宣伝に成功したというところはあると思うのです。そして、コネのない若手研究者に自由に挑戦、活躍の場を与えるとか、男女共同参画とか、そういう形で、派手ではないものの着実に成功している例は多くあるわけです。今回の問題を契機に、CDBの伝統とも言えるこういうあり方が科学研究を実施する上で危険であるとか、問題があるとか、見直して止める必要があるとか、そういう議論になってしまうとしたら、とても残念なことです。この点に関しての問題は、あくまで個人の問題として分析されるべきです。例えば、今回の問題のロールモデルとしての「若手」「女性」「経歴がメジャーでない」というようなイメージを想起させる研究者のリクルート、つまりポジティブ・アクションとか、米国流に言えばアファーマティブ・アクションに極めて慎重になってしまうという結果になるとしたら、それは残念であると思います。ひいては、日本国内の研究者人事のあり方にも影響を与えかねません。「老人」「男性」「経歴が主流派」ばかりになったら、日本の研究環境の多様性は失われ、昔に戻ったようになってしまいます。

大切なのは、人事の問題とか、運営の問題とか、そういう点でCDBに問題ありとするのなら、それは理研全体の問題であり(例えば、官僚的な運営を含めて)、コネ人事では他のセンターの方が問題であるのに、それに目を向けずに、CDBだけが悪いという形になるのは、私としては違和感があるのです。

研究問題というと、通常、制度や仕組みの問題を議論するということになると思います。このようなことは、他の方が大いに議論されると思いますし、共通する意見や提案が多くでてくるでしょう。しかし、一般論としてですが、制度や仕組みの問題というのは、実は日本で研究活動を行う上で、それほど深刻な問題ではないのではないか。つまり、これまでの制度や仕組みの中でも、実際に多くの研究がなされ、多くの研究者が利用し、それほど困ったという声がなかったものばかりなのです。我慢したり工夫すれば、何とかやっていけるというものがほとんどではないか。本当に深刻な問題だったら、変わります。多くの人がそういう方向で動くでしょう。例えば、殺人は真に深刻な問題だから、大きな罪になるというルールができたのです。

今回、私はこれらとは違った観点から、日本の研究費、そして科学研究推進において極めて深刻であるにも関わらず、多くの人に気づかれていない、あるいはタブーとされてきた問題点について、論じてみたいと思います。簡単に言うと、日本での研究活動がやりにくいという問題のかなりの部分というのは、制度や仕組みの問題ではなくて、実はリーダシップを取る研究者のそれぞれの「個人」の意識、倫理観、知識の欠如から生じているのではないか、ということです。そして、そちらの方が想像以上に深刻なのではなかろうか、という問題提起であります。

まず、その前に、私自身について、ごく簡単に自己紹介させていただきます。私は、現在、50才を過ぎた神経科学分野のポスドクです。業績がないから、そうなったのだろう、というご意見があるか、と思います。でも、神経科学の分野では世界で最も有名な教科書に、日本人としては最も数多く研究が紹介されたり、名前が掲載されたりしています。しかし、日本で職を探そうとすると、明らかな妨害工作を受け、見つけることができませんでした。このこと自体が奇妙なことであると思うのですが、経緯を考えると、やはり日本での科学者コミュニティからのパワーハラスメントにあったということです。つまり、日本の科学者コミュニティの仕業でキャリアが潰れてしまったということです。そして、このような人というのは、過去においても現在においても結構多数いるのではないか。戦う意欲のない人達は、日本から逃げて、海外でキャリアを求めたりする。現実に海外で名を馳せた研究者の中には、日本で職が見つからなかったからという消極的な理由で海外でキャリアを確立した方も多いでしょう。一方で、私のように消えていく研究者や最後まで戦おうとする人もいます。これは深刻な問題です。日本の中で研究者としてやっていけるか、やっていけないという死活問題に関わるのですから。同時に、日本の科学研究の発展にとっても、真のイノベーションを生む研究環境、グローバルな視点、異分野間での交流、若手研究者育成などの観点から、極めて深刻な問題であると私は考えます。

おそらく研究者の皆様も気づいていると思いますが、俗に「コネ」と呼ばれるものがあります。科学研究費、組織運営、人事などの点について、この「コネ」というものが多くあると思います。そして、日本の科学研究のあり方を大きく歪めているのではないか、というのは多くの人が実はそれとなく気づいています。「コネ」を利用している人も、そのことを知っているから積極的に「コネ」を利用するわけです。一方、「コネ」がない人は、こういう点について、大きな不満があるわけです。

こういう「コネ」というのは、結局のところ、Conflicts of Interests(相反利益)が排除できない、倫理観に問題があるということを意味しています。この倫理観というのは、研究者それぞれについて、様々な認識があります。制度や仕組みでコントロールされているものではなくて、端的に言えば、リーダーシップを持つ研究者の個人的な行動とか、感情とか、そういう制度や仕組みを超越したレベルで支配されているということです。こういう感情の中には、研究の評価も含まれたりするわけです。例えば、自分の弟子だから、研究の評価も高いなどという、科学的でない論理が横行しています。科学的根拠や決まりより、個々人の感情に支配されるような研究費運用などというのがありうるのでしょうか。人事などでも、科学的な論理より、個々人の感情に基づく運用が随所で見られます。例えば、ある研究所では、本来ならいろいろな分野から、いろいろな多様なバックグラウンドを持った人をリクルートするべきであるはずなのに、実際は部長クラス、研究所長クラスの研究者の関係者ばかりが「コネ」でリクルートされているとか、そういうのは枚挙に暇がないでしょう。更に問題を複雑化しているのは、こういうのは、それぞれの大学や研究所の中だけで見られるだけでなく、日本の科学者全体が一つのコミュニティを形成していて、その中で、同様な現象が見られるということです。一方においては、それぞれの大学や研究所の自治などというもっともらしい理由で、そういう行為の苦し紛れの正当化がなされているわけです。

科学的根拠に基づかず、「コネ」を含めた感情で運用するような研究費の分配、あるいは組織の運営がどうして生じるのか。結局のところ、審査や運営にあたる個々人としての研究者の意識、倫理観、知識の問題に帰すると思われます。例えば、なぜConflicts of Interestsが排除できないのか。Conflicts of Interestsがあると感じたら、自ら身を引くというような行動はとれないものか。審査や運営にあたって、重要な情報が、事前にリーダーシップを取るべき研究者のみに独占され、既得権益の確保や自らへの利益誘導に活用されてしまうのは何故なのか。学校教育法改正で法的根拠がなくなった講座制やそれを想起させるような人事が、依然として主要な研究機関で実施されているのはなぜなのか。

このようなことを考慮して清く正しく活動できるリーダーシップを積極的に高く評価すること(評価の評価)、そのためにリーダーシップを発揮するような研究者を研修などで人格面まで含めて再教育することで意識を向上させたり、Conflicts of Interestsの排除というようなコンプライアンスに関わる知識を持たせること、更には違反者には罰則の制度を作る必要があるのではないか、ということです。Conflicts of Interestsを排除するような厳密な方針が必要ではないのか。利己利益を優先する行動をとったリーダーシップを持った研究者やその結果について、懲罰が必要ではないのか。そもそも国内の研究機関、あるいは国内の科学研究においてのリーダーシップのあり方が体をなしていないのではないのか。大切なのは、このような個人のリーダーシップの意識、倫理観、知識のあり方というのを、日本の科学研究を発展させる上での最も本質的かつ深刻な中心課題として捉えていくということであると思います。
ishiki
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