わがまま科学者

こちらのサイトに移動しました:http://wagamamakagakusha.hatenablog.com 米国ボストン在住の神経科学研究者のブログです。科学、教育などに関する雑多な私見、主張。1ヶ月に1度程度の更新予定。  Twitter:@yamagatm3   研究者情報:https://about.me/masahito.yamagata/

2017年12月

私は米国に来て長く経ちます。これまでの米国での研究生活を振り返るのも悪くなかろう、ということで初心に帰るつもりでそんな文章を書いてみました。世の中では、いわゆる「成功者」の話というのは、メディアや大学の広報など、あちこちで見かけます。ある人は本を書いたりしているでしょう。

ところが、失敗者の話というのは、ほとんど見かけることがない。あっても、断片的であるために、一体、何が問題だったのか、よくわからない。大学や文科省などは、成功者でなく、むしろ失敗者や辞めざるをえなくなった人たちが、どうしてそうなってしまったのか、という点をよく理解することで、そうならないための仕組みをつくることが大切であると思います。

私が意図しているのは、私の失敗談を単なる「個人の問題」として捉えるのではなく、そこにある「社会のあり方の問題」として考えていただければということです。そして、昔と今を比べることで、昔の問題が何だったのか?そして現在の問題が何なのか?更に、最終的に失敗者となる私がどのように失敗者となっていったのか、未来ある若い人たちに、そしてリーダーたちに考えて欲しいと思っています。

年末にかけて、私の留学記パート1(1994年まで)までの「サクセスストーリー」を書きました。これは、まだ序章に過ぎません。この続きは、いつになるかわかりませんが、この後、40回分のブログの内容があるということになります。

http://masahito-yamagata.hatenablog.com

既に、昔、人事がどのように行われていたのか、についてその利点と欠点などを考えることができるのではないでしょうか。

そして、残りの40回分の中では、例えば、こんな問題を具体例を通じて見出すことができると思います。

1. 分野や研究内容を大幅に変えた人はどのように評価するのか?誰が複数の分野を評価し処遇するのか?昔の研究は、分野を変えると「無」になってしまうのか?
この仕組みを議論しないと、分野横断的、学際的な研究が発展しません。I型人材ではなく、T型、更にはΠ(パイ)型、H型人材の重要性が叫ばれる現在の大きな問題であると思います。

2. 自分の恩師が関与できない時(高齢、死亡、面倒を見ないという性格など)、その人の面倒は誰がみるのか?大学人事の流動化で、教員がいなくなってしまう、講座がなくなってしまう時代。このような時代に、潰れたラボ出身の出身者は誰が面倒をみるのか?あるいは面倒をみないのなら、すべての研究者が平等に扱われなくてはならないでしょう。

3. 見えない講座制の論理の問題?
日本では、講座制の問題がいろいろ議論されていますが、「見えない講座制」の論理があちこちで観察されます。例えば、AさんはB先生の弟子であるというような論理です。その結果、Aさんには関係ないのに、コミュニティがB先生への昔の恨みをはらそうとしてみたり、あるいは忖度したりする。こういうことをどう考えるのかということです。

年の瀬です。「此頃都ニハヤル物、」で始まる「二条河原の落書」というと、建武元年(1334年)、二条河原で話題になったという日本史では有名な史料です。
原文から。https://ja.wikipedia.org/wiki/二条河原の落書

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非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ 
花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。
(中略)
サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 
定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ
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現代語訳文 http://historykennel.blog.fc2.com/blog-entry-45.html より引用させていただきました。
「兵士であっても職がない、そういう輩が増えている。辻で出会えば挨拶の、かわりに噂をひそひそと。ちょっと田舎に行ってまで、風雅を愛でる人もなく、公卿も武家も京にいて、保身出世に奔走す。(中略)さして手柄もないけれど、いつの間にやら大出世、そんな男も中にいる。落ち度があれば必ずや、損してしまうことになる、そう考えてすることは、上司にゴマをするばかり。」

日本ではバイオ系の大きな学会が開かれているということで、そこで見かけるだろう「落書き」。

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博士であっても職がない、そういう輩が増えている。学会で出会えば、挨拶のかわりに噂をひそひそと。
地方はとても貧しくて、学問もできず。教授も学生も都会にいて、保身出世に奔走している。
(中略)
たいした業績もないのに、いつの間にやら大出世するものもいる。
少し落ち度があると潰される。考えているのは、上の信用をえるために、媚びたり忖度することばかり。

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別の「落書き」を見かけました。

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日本の研究競争力がなくなってるのはビッグサイエンスに偏ってるから
https://anond.hatelabo.jp/20171206092117
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これに対して、「日本の科学と技術」さんがこう書かれています。
https://twitter.com/scitechjp/status/938413141439819777
「サイエンスのブレークスルーを作るのは、トップダウンのビッグサイエンスではなく、個人の頭の中のユニークなアイデア。どこの誰がどんな面白いことを考えているかは予測がつかないから、最低限の研究費を薄く広くばら撒くのが一番いいお金の使い方。億単位の予算を一人につけると無駄になること多し。」

全くその通りだと思うのです。ただ、ビッグサイエンスというのは、時に家内工業のようなスモールサイエンスを守るための「方便」として利用されていることもあるので、表面だけ見て判断をするのも、危険な議論だとは思うのです。

昔、亡くなった岡田節人さんが、生物学にはビッグプロジェクトがないから、素粒子物理学のように予算を引っ張ってこれない、というようなことを言っていたのを思い出しました。まだ、ヒトゲノムプロジェクトなどがでてくる前でしたが。。

ビッグサイエンスは、おそらく成功すると約束されたような状況で、確実かつ計画的に大きなまとまった予算が取れる。うまくいかなくても、成功と見せかける予防線を張っておくことも常です。ビッグサイエンスの一部ということで、この予算の一部を何らかの形で分配できればスモールサイエンスも助かるわけです。

一方、スモールサイエンスは計画しにくいし、不安定であるということでしょう。

もっとも、日本のある分野では、こういう「見せかけ」の手法の中毒みたいな感じになっているのではないか、と思うのです。そして、こういう見せかけの中毒になってしまっているので、それに関わる様々な研究者コミュニティの「しがらみ」がでてきてしまうのでしょう。

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