このところ、日本では、第5期科学技術基本計画(2016-2020)の議論が盛んになっているようです。日本の科学技術政策、大学、大学院、研究所、学会の運営。。何でもそうなのですが、「根本のところから議論しない」「根本のところの議論をさせない」「根本のところの議論ができない」。こういうところがあるのではないでしょうか?議論をしようとすると、「無駄だ」「くだらない」「そういうのが世の中だ」などという理由を付けて、議論から逃げてしまう。私は、こういう姿勢が、物事を根本から解決ができない理由だと思っています。

根本のところの議論をなおざりにして、表層的な議論から何か解決を目指しているようにみえる施策が決定される。その結果は、数値目標とか、予算獲得のための方便とか、リーダーを賛美するみたいなふうになってしまい、本来の「目的」を忘れ、結局、何も解決しない。こういうことになってしまう。政策、施策、運営などで、あることがなされる場合、どうしてそんなことがなされるのか。今回は、「女性限定のPI研究者公募」ということを1つの例として、わがままに議論してみたいと思います。

悲観的になった男性研究者達
10年ほど前から特に若い男性研究者から聞くようになったのですが、「男の研究者はもうだめ。ポストもなければ、放かっておかれるだけ。」博士取得後、ポストドク後にポストがない問題が大きくなるなかで、こういう士気のない感想をあちこちで聞くようになったのです。そこそこの業績があって公募に応募しても、出来レースみたいな形で女性の研究者が優先される。女性だと、少し目立った研究をすると、すぐにポストが見つかるし、学会などのコミュニティからも大切にされるのだと。。これもSTAP問題の背景の1つだと思いますし、科学者コミュニティでは、目立った研究をする女性研究者を積極的に探そうとしているのだと思います。ところが、こういう話というのは、学会などでアンケートを取っても見かけることがありません。それはそういう形の感想が出るようなアンケートを取っていないからでしょうし、そもそもそんな意見が世の中にでてきてしまったら都合が悪いのかもしれません。若い男性研究者は、科学研究もできないし、自分の子供の教育資金もないと。。これは、この10年くらいの男女共同参画の気運や施策のもとで、今回議論するような様々な要因により、大学や研究所などが、若い男性研究者が悲観する方向を目指すようになったということだと思います。

最初に言っておきますが、私は男女共同参画の超積極的な推進派です。しかし、それを推進するための姿勢や方法に疑問を持っています。最近、作家の村上春樹さんが、読者との質疑応答のイベントをやっているのですが、その中で、村上春樹さんのこんな言葉が私の心に響きました。

「僕のまわりの『輝いている』女性たちはみんな、安倍さんに向かって『おまえなんかに、いちいち輝けと言われたくないよ』と言ってます。たしかに余計なお世話ですよね。とくに輝かなくてもいいから、女性が普通に、公平に働ける社会があればいいんです。僕はそう思います。」(村上春樹)
(引用元:http://news.livedoor.com/article/detail/9731016/


女性限定の公募は世界が納得するか?
世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)というのは、日本が誇る科学研究を推進するために作られた組織です。最近、筑波大学のWPIから出されている「Female Principal Investigator」の英語公募がNatureJobsなどに出ていて話題になっていました(下の写真)。

筑波大学のWPIといえば、在米も長かった柳沢正史さんが、リーダーを務める、しっかりとしたものだという認識があったのですが、「Female Principal Investigator」を英語で国際公募するという、このことに様々な賛否があるようです。皆さんは、この公募について、どういう感想をお持ちでしょうか。
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女性限定の公募についての捉え方というのは、いくつかあると思います。日本語で日本国内だけで公募するというケースは、既にこれまでもしばしば見かけたことがありました。一方、英語で国際公募するというのは珍しい。

日本語で国内外の日本人に向けて公募するという場合は、実は、そういうのを受容するという考えを持つ人が多いのです。むしろ「積極的に」やるべきだという意見が多かったりする。こういうのは、例えば、2012年に九州大学の理学部数学科で「女性枠」を設けたというような入学の限定枠(別の表現をすると、「男性排除枠」)を支持する意見と共通点があるのかもしれません。

一方、英語で国際公募という場合、逆に、恥ずかしいという感想を持つ人が多い。それでも敢えて肯定的に捉えるなら、「現状の問題をこういう形で世界に訴えている」のだという考え方をする人がいるようです。ちなみに、私は、こういう公募は「ハラスメント」に相当するのではないか、と個人的には感じます。もっとも好意的に捉えれば、「外国人」を採用するための公募という見方もできますが。

日本語と英語での捉え方の違いがどうして生じるのか。国際的には、人権の観点から「女性限定の公募」が非常識ではないか、と感じる人が多い。ワールドだ、グローバルだ、スーパーグローバルだと言っている日本の大学で、そういうことをやるのは、やはり国際的な人権感覚と相容れないという感想を持つ。一方で、日本語でやる国内公募だと、そうは感じない。日本では、こういう公募を出さざるをえないような悪い状況があるのだと。。つまり、こういうのは、日本という「国」の事情が大きく関わっているということなのだと思います。

表層的な法的議論でいえば、実際、日本の法律でも、「男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」の第5条では、こういう形の公募は禁止されているわけです。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47HO113.html

ところが、同法には、第8条「事業主が、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となつている事情を改善することを目的として女性労働者に関して行う措置を講ずることを妨げるものではない。 」がある。その付随する説明では、「職場に事実上生じている男女間の格差を是正して、男女の均等な機会・待遇を実質的に確保するために、事業主が、女性のみを対象とするまたは女性を有利に取り扱う措置(ポジティブアクション)は、法違反とはなりません」ということになっている。http://www.mhlw.go.jp/general/seido/koyou/danjokintou/aramashi.html 大学などで、女性研究者限定の公募をやったりする人達の議論というのは、こういう法的な説明があるのだと、大抵、そういう表層的な議論で終わってしまうのです。

もちろん、男女の機会均等を前提としたポジティブ・アクション(米国流に言うなら「アファーマティブアクション」)は行われるべきです。これは、米国や欧州の研究者公募でも、「アファーマティブ・アクション」や「機会均等」を付加した公募は常識と言ってもよいと思います。ところが、公募の段階で、「限定」、つまり変えることができない「性」により、別の性を「排除」するというのは、行き過ぎではないか、と多くの人が感じるのではないでしょうか。また、トランスジェンダーの場合は、どうなるのか、という疑問も生じる。でも、日本では、これがわりと広く許容されてしまうわけです。


「Justice」のサンデル教授と考えてみる

この手のポジティブ・アクションやアファーマティブ・アクションについては、様々な議論がある。日本の場合、こういうのは訴訟にまでなったりしないので、議論も深まらないし、「公的」な見解もあまり存在しない。おそらく、それぞれの研究機関は、こういうもの、人事のプロセスについて、マニュアルみたいなものを作って、それを「公開」するべきなのだと思います。

米国では、何でもすぐ訴訟になったりするので、議論は深まっているでしょう。ハーバード大学の前学長で辞任に追い込まれた経済学者サマーズ氏の発言問題などは、記憶に新しいところです。簡単に議論をまとめたものに、ハーバード白熱教室でのマイケル・サンデル教授の授業があります。
「入学資格を議論する」
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/100530.html

http://www.justiceharvard.org/2011/02/episode-09/
(古い授業。最新の授業はEdXで、視聴可能。サンデル教授の本も出ていると思います。)

その中では、3点の議論をしています。


(1)「機会を与える」

少し話がずれますが、日本の教育問題の1つは、都市部、特に東京などと地方、例えば、東北の田舎などとの、教育環境の差があると、私は思います。これは、家庭の所得ということにも関係しているだろうし、指導力のある塾があるとか、参考書を買えるとか、そういうものも関係している。人々に平等なチャンスを与えていない。例えば、これを補正するために、地方に住んでいて、年間所得が低くて、子供が多い場合は、センター試験の点数を加点するというような制度を作ったらどうか、と私は思うのです。つまり、教育環境で、同じ機会を与えていない。これが、このところ流行のトマ・ピケティ理論を連想させる格差の1つであるわけですが。

こういう議論が男女間でどうか、というと、そういう部分というのは、今の日本ではそれほど深刻ではないのではないか、と思います。例えば、女子だからという理由で、塾には通わせない、こういう家庭はそれほど多くはない。もちろん、そういう家庭もあるとは思いますが。特に、大学院まで進学させて、研究者になるようなレベルですと、こういうキャリア形成過程での格差というのはほとんどない、と思います。ましてや、大学、大学院での教育では、男女で違った対応を取るというのはありえない。もしあるとしたら、それは除去しなくてはなりません(例えば、男性だと、チャレンジングで面白い研究テーマを与えるのに、女性だと、手伝いみたいなテーマしか与えない教員がいるとか)。

ですから、研究者の公募において、個々人の過去のキャリアの過程での補正のために、ポジティブ・アクションを行うという理由は存在しないのではないか、というのが私の考えるところです。


(2)「過去の償い」

議論の2点目は、「過去の償い」ということ。これは、個人の過去ではなくて、社会の過去の償いということでしょう。男女差別というのは、歴史的にはどんな文化でも存在していた。それは米国でも、北欧でも、パキスタンでも、そうですし、現実にそういうものが存在しているわけです。過去の事実を、現在の社会が償うことで、補正しようということです。日本の大学などにおいても、過去の差別的な経緯があって、それを現在、「女性限定公募」や「ポジティブ・アクション」を行うことで、償う。それは、社会全体をみれば、そういうことが行われることは納得する人も多いことでしょう。

ところが、この議論の最大の問題は、「なぜ、過去の世代の過ちを、現在やこれからの世代が償わなければならないのか?」ということです。

大学で言えば、現在の大学の執行部が男性優位となっている。ところが、その過去世代のツケを、これから研究者としてのキャリアを築こうとしている若い男性研究者に一方的に押し付けようとしているわけです。若い男性研究者は、力関係で言えば弱いですから、偉い男性がそのパワーを持って、そういうことを強いている。要するに「パワハラ」であるということです。ひどい場合になると、性格の悪い熟年男性研究者が、若手の男性研究者をいじめるために、こういうコンテキストを使ったりすることもあると思います。

日本の場合、これが非常に一方的にそれだけを強いているというのが、問題であると、私は思います。そして、男性優位社会で恩恵を得た過去の世代は、知らん顔で、依然としてプンプンと威張っているわけです。そして、ポジティブ・アクションの結果としての若い世代での女性の活躍は、熟年男性優位な執行部に対する評価となってしまう。過去の過ちによって恩恵を得た世代は、しっかりと自らの過去に向き合って欲しいと思います。

米国などの有力大学の学長が、女性になったりするのは、こういう観点から、過去の世代にも償わせるという意味があるのではないか、と思うのです。日本では、最近も京大や東大の総長などの交替時期になっていますが、依然として、男性総長ばかり。地方の大学などでもそうでしょう。やはり、「なぜ、過去の世代の過ちを、現在やこれからの世代が償わなければならないのか?」という素朴な疑問に、過去の世代が全く応えようとしていない、ということです。戦争などの過去は、大昔のことになってしまい、過去の世代は実際には存在しなくなっている。一方、男女差別などの問題は、過去の過ちによって恩恵を得た世代がまだ活躍しているのにも関わらず、そういう人達は、何も償いをしようとしない。とても変であると思います。 どうせ202030の数値目標を目指すのなら、1年以内に全国の大学の学長の30%を女性にするという極めて具体的な目標を作ったらどうでしょうか。

(3)「目的」

さて、サンデル教授の議論の3つ目は、「目的」、つまりダイバシティーということです。この「目的」というのは、いろいろな観点がある。

米国ですと、医師でも、弁護士でも、マイノリティのコミュニティで働いてくれる人がいないと、困るわけです。ですから、そういうダイバーシティは大学院の入学について、必須なものという議論は納得できるものです。日本でも、地方の医学部などに、地方枠というのがあったりする。これもそういう職業の目的上、そういうことをしなければならない「具体的な目的」があるわけです。ところが、科学研究者の場合、男女、人種、出身地などについて、ごく特殊なケースを除いて、こういう具体的な目的というのは存在しないのではないでしょうか。

科学研究者の場合、具体的な目的というより、抽象的な目的というのは、しばしば議論されると思います。例えば、アイデアに多様性が必要なのだと。。でも、これは抽象的過ぎて説得力がないし、その多様性を生み出すために、研究者の性、国籍、人種、出身地などというのは、1つの因子であっても、研究分野、教育などのキャリアなどの多様性の方がもっと大切でしょう。

日本の場合、人口が少なくなっていくので、そのために、女性や高齢者を働いてもらって、労働力を増やす必要がある。これは、国の事情によるのでしょう。でも、国の経済という金儲けが目的という意味で、その目的は高尚ではないです。あるいは、世界の他の国では女性が活躍しているのに、日本はその度合が低いので、そうするのだ。これも、国の事情によって生じた「目的」ですが、国の名誉みたいなものが目的という意味で、何かちっぽけに聞こえます。更には、人権の立場から、そういう方向を目指す必要があるのだという「目的」。これは多くの人が納得する議論であるので、結局のところ、ここに目的があるというのは議論しやすい。でも、人権というのは、世の中には他にもいろいろあるわけで、なぜ男女共同参画にプライオリティがあるのか、というのは説明が難しいかもしれません。

更に、そうした目的を達成するために、「ロールモデル」を作る必要があるのが目的なのだと。。「目的の目的」。そういう議論もあるでしょう。

女性限定の研究者公募では、その目的が一体どこにあるのか。それを特定して説明できるのでしょうか?

こういう対象を限定する公募で、日本で実施した方が良いと思われるのは、日本国籍以外の人物に限定した公募でしょうか。これですと、英語で授業をやるとか、そういう「具体的な目的」があるわけです。また、欧州では、自国民以外の国籍を持つ研究者に限定した公募や研究費枠というのは、しばしば見かけます。


不誠実な運営を蔓延させるにんじん作戦
女性限定公募を出すような大学というと、筑波大学とか、広島大学とか、そういう中堅大学が多いと思います。この背景には、文科省あたりの顔をうかがって、予算を得よう、予算を減らされないようにしようという「媚び」の姿勢が背景にあるからではないでしょうか。これも、国立大学法人化以降、様々な予算の主導権をめぐって、文科省(更にその上にある財務省)と大学との力関係が変化してきたということが背景にあるのかもしれません。もう少し、文科省に対して強い立場に立てる大学などだと、こういうことはやらないと思います。あるいは、こういう中堅大学のリーダー研究者や事務関係者が、知識に乏しいのか、人権意識が低いのか、国際感覚がすこぶる欠如しているのか。ようするに「自分達のやっていることがよくわかってない」ということもあるかもしれない。つまり、文科省などに対する媚びの姿勢と、知識の欠如や運営センスの貧弱さが結びついて、こういう公募を出してしまうのかもしれません。

もっと言ってしまうと、こういう公募を出すというモーティベーションというのは、「男女共同参画」にあるのではなくて、実はエゴイスティックな「予算獲得」、更には熟年男性中心に運営されている組織の「評価向上」にあるのではないか、ということです。「女性限定のポスト」には、女性を就けておいて、別の普通のポストには、その女性を就ける必要がないので、影でコソコソと自分のコネで男性研究者をポストに就けるとか、陰湿な人事がありそうです。そして、これでは、数値目標を達成して評価を得る熟年男性リーダーが発言力を強めて、偉くなるばかりで、本来の目的とは逆の効果を与えてしまうという可能性もあったりするわけです。旧帝大のような良識的(?)な大学ですと、やはり「ポジティブ・アクション」「雇用機会の均等」などを前面に出した公募は行うが、積極的に排除するような公募はやったりしないでしょう。それでも、こういった大学でさえも、実は「ポジティブ・アクション」を行う動機に「組織全体の予算獲得」「男性中心組織の評価向上」といったものがある可能性があることは指摘しておく必要があると思います。(あるいはそう感じるので、「(2)「過去の償い」」で議論したように、学長を女性にするなどして、その疑いを晴らす必要がある)

この点について、私の提案としては、男女共同参画の推進の目的で、目的外の予算を付けたり、削ったりするような誘導行為を、基本的にやめたらどうか、ということです。数値目標を達成すれば、組織全体に自由に使える予算を付けるとか、結局、金銭を獲得するためには何でもするという人間の心を煽っているようなやり方としか、思えない。文科省や大学、研究所で、議論したり、促進策をまとめるのは、どんどんやればよいのですが、それを実行に移す段階で、予算(運営費やポスト)という「にんじん」をぶら下げるような施策はやめたらどうか、ということです。もし付けるなら、育児施設のような「目的」がそれに完全に限定されたものだけにするべきでしょう。

それでも、心ある運営を行うリーダーならば、予算とは全く無関係に、自腹を切って積極的に推進するのではないでしょうか。例えば、仲のよい熟年男性の同僚のポストを廃棄して、女性研究者のポストを優先するとか。こういうことをやれば、真に正しい心を持った優れた運営をやる人がでてきて、真の目的が追求されるようになるのではないでしょうか。リーダーや運営に真に誠実なこころを育むような施策を行うべきです。これが、私が常々指摘している「愛」に基づく科学研究の組織運営や施策につながるのです。

日本の熟年男性中心の運営組織が、予算などのインセンティブがないと、男性ばかりの組織作りを何も考えずにやってしまうのは、あちこちで見られるのです。何かのメンバーリストを見ると、男性ばかりとか、そういうのは枚挙に暇がない。こういうのは、自分の利益にならなければ、何もやらないという姿勢が根付いてしまっている証拠だと思います。こういう意識を治療しない限り、男女共同参画という本来の目的は達成できません。

そもそも、こんな不純な動機で採用されたら、採用された本人が幸福ではないでしょう。採用する側は、そういう経緯を知っているので、育成したり、協力したりする意欲にも影響を与えそうです。


科学を行う人は誰であるべきか?
どんなことでも、こういう根本のところから、科学研究の政策、大学運営などを考え、議論してみることは大切なことだと思います。日本では、実は、こういう議論が非常に不足しているのではないか。結局、なりゆきにまかせて、本来の目的を忘れたような施策がなされ、施策は心ない人々によって権力や予算獲得に利用されるだけで、根本的なところが解決しないということになってしまう。

さて、サンデル教授の最後の問いかけは、こんなものです。
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/lecture/100530.html
「古代ギリシアの哲学者アリストテレスの正義論を紹介する。アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと考える。正しい分配をするためには、分配される物の目的を考えなければならないと論じる。最高のフルートは、誰の手に渡るべきだろうか。アリストテレスの答えは、最高のフルート奏者である。すばらしい演奏がなされることが、フルートの目的だからだ。」

科学の目的を考えれば、科学を行う人は誰であるべきか?最高のフルートが与えらるべきなのが最高のフルート奏者であるように、男女関係なく最高の科学者であるべきである。おそらく、頂点の科学は、こうあるべきなのでしょう。日本でも、米国でも、現状がそうなっているのか、というのには、疑問がありますが。。こういうのは、「女性枠」や数値目標の話題とも関係しているでしょう。また、ジェンダーとともに、もう1つの変えられない問題である「年齢差別」や「国籍」の問題とも関係しています。

「最高のフルート」を渡す最高のフルート奏者を探し、最高の演奏をしてもらう。そのためには、評判を聞き、実際に演奏を聞き、待遇を提示し、もてなす。そこでは、年齢も、性別も、国籍も関係ありません。科学者でも、こういう音楽演奏家のように、純粋に活躍の場を提供する。なぜ、科学者の業界は演奏家の業界のようにならないのでしょうか。

一方、「音楽の冗談」で出てくる演奏家のような2流の科学はどうなのか?でも、「2流の科学」って何か?科学ごとに価値の違いが生じているのは何故なのか?「2流の科学」は、誰が行うべきなのか?

結局、こういうのは、答えがない。そういうものです。でも、根本から考え直して議論してみるということが大切だと思うのです。次期科学技術基本計画の議論でも、アリストテレスくらいから議論してみたらどうだろうと思います。
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次回のブログの更新は、2015年3月を予定しています。

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