米国NIHのBRAINイニシアティブのプロジェクト公式発表
しばらく前に発表されたNSFのBRAINイニシアティブ関係プロジェクトの発表に続いて、9月30日(米国東部時間)に、米国NIHのBRAINイニシアティブの最初のプロジェクトの内容が公開されました。ホワイトハウスにおいても、コンファレンスが開かれるとともに、大学など各研究施設でも大きなプレスリリースがなされました。

NIHのFrancis Collinsディレクターが、そのブログの中で「America's Next Moonshot」という言葉を使いましたが、この言葉の中に、その意欲のすべてが現れているような気がします。
http://directorsblog.nih.gov/2014/09/30/brain-launching-americas-next-moonshot/

ホワイトハウスでも、BRAINイニシアティブのページが設置され、最近の動きを「ファクトシート」の中でまとめています。
http://www.whitehouse.gov/brain
ファクトシートのダウンロード(pdf)。
http://www.whitehouse.gov/sites/default/files/microsites/ostp/brain_fact_sheet_9_30_2014_final.pdf

これによりますと、政府関係の参加機関として、NIH, NSF, DARPAに加えて、FDA(食品医薬品局)そしてIARPAが加わっています。IARPA (Intelligence Advanced Research Projects Activity)というのは、簡単に言えばCIAの機関です。諜報機関も加わって、認知科学の研究に挑むということになるのでしょう。また、先回のブログでも取り上げたように、政府関係の機関だけなく、Google、GE(General Electric)などの民間企業、更に、Simons Foundationなどの新たな民間財団が加わっています。NIH, NSFだけでなく、軍事、諜報、民間企業、民間財団も含めて、大きな動きを見せているところが、米国のBRAINイニシアティブの特徴でしょうか。
Simons FoundationのGlobal Brain
http://www.simonsfoundation.org/life-sciences/simons-collaboration-on-the-global-brain/

ホワイトハウスでのコンファレンスでは、若い大学院生や大学生がコメントを読み上げ、このプロジェクトについてのコメントを読み上げました。人材育成の上でも、大きな効果が期待されます。
The White House Conference on the BRAIN Initiative (YouTubeで3時間あまりの内容のうちの半分ほどが紹介されています。)
https://www.youtube.com/watch?v=6MEGFFlMHpQ

NIHのBRAINイニシアティブで今回選定されたのは、やはり出来レースとも言えるような、米国の神経科学の中核となる機関や大学の研究者です。それぞれのプロジェクトの詳細はこちらから。
http://www.braininitiative.nih.gov/nih-brain-awards.htm

今回は、個々の研究課題について、本ブログでは、詳細なコメントを書く余裕はありませんが、「神経科学者SNS」の日記ページでも、時々紹介していますので、もう少し深い内容を知りたいという方はそちらの方も御覧ください。
https://neurosci-sns.nips.ac.jp/


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Human Brain Project (ヨーロッパの巨大脳科学プロジェクト)
さて、米国のBRAINイニシアティブの発表と同じ週に、ヨーロッパEUのHuman Brain Project(HBP)の方も、ドイツのハイデルベルク大学でHBPサミットが開かれ、その状況が報告されました。
https://www.humanbrainproject.eu/
このHBPサミットは、スイスのCERNの60周年式典と同時に開かれていたのです。これは単なる偶然なのでしょうが、HBPを、EUのフラッグシッププロジェクトとして、CERNのようなものにしたい、という願望が込められているような気がしました。このサミットには、米国の関係者や、日本からも慶応大学の岡野栄之教授などが参加し、Brain/MINDSプロジェクト(Brain Mapping by Integrated Neurotechnologies for Disease Studies)を紹介しました。



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その他の国の脳科学プロジェクト
さて、米国やヨーロッパだけでなく、中国でも、その資金力、人材力を使った脳科学プロジェクトが始まっています。まだ議論があるようですが、基本的には、トランスレーショナルな研究に重点が置かれるようです。
Where to the mega brain projects?
Mu-ming Poo (Institute of Neuroscience, Shanghai Institutes for Biological Sciences, Chinese Academy of Sciences, China)
http://nsr.oxfordjournals.org/content/1/1/12.full

HBPのサミットでは、Luo Qingming氏 (華中科技大学、武漢市)が説明をしていたようです。

また、Brainnetomeと名付けられたプロジェクトも中国の脳プロジェクトの中心になると思われます。
Brainnetome Center, Institute of Automation, Chinese Academy of Sciences, Beijing, 100190, China
http://www.brainnetome.org/en/
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23571422

韓国では、Center for Functional Connectomics (http://cfc.wci.re.kr/english/portal.php)が、設立されました。

オーストラリアでは、AusBrain。
http://www.theguardian.com/world/2014/feb/24/australian-scientists-should-set-minds-to-developing-bionic-brain-report
AusBrainのパンフレット(pdf)。
http://www.sciencearchive.org.au/events/thinktank/thinktank2013/documents/FINAL%20thinktank2013%20recommendations_embargoed%20till%2025feb.pdf

HBPサミットでは、Bob Williamson氏 (Australian National University)が説明していました。

数理や理論に伝統があるイスラエルの神経科学。 
IBT (Israel Brain Technology)
http://israelbrain.org/

EUとは別に、東欧の国でも脳科学への投資が始まっています。例えば、冷戦時代から脳科学の伝統があるハンガリー
Hungary launches 39 million euro brain research program, the single largest scientific grant in country’s history
http://ibro.info/news/hungarian-brain-research-program/

アジアで生命科学に力を入れているシンガポール
Launch of Singapore’s largest neuroscience research institute
http://news.nus.edu.sg/highlights/7479-launch-of-singapore-s-largest-neuroscience-research-institute

なお、数年後に、米国、EUを含めたこれらの活動が一同に集まる会合が、Allen脳科学研究所の主導で計画されているとのことです。

brain


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さて、先月のブログの続きです。私は、2014年1月から3月まで、日経バイオテクに「脳科学の未来」と題する連載記事を書かせていたできました。
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1970798.html

今回は、その「脳科学の未来」の第6回「7つのチャレンジ」の部分を、日本の脳科学発展の議論のきっかけとするために、公開しておきたいと思います。
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「脳科学の未来」第7回「7つのチャレンジ」(https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20140326/175032/>日経バイオテク記事に追加)
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日経バイオテクには、アカデミック版というのがあって、大学(ac.jp)、政府機関(go.jp)のドメインに所属されている場合は、安価で記事が読めるプランがあるということです。
http://nbt.nikkeibp.co.jp/bio/bta/
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曖昧な目標と不十分な方法論

これまで5回にわたって、「脳科学の未来」と題して、米国のBRAIN Initiativeの動向と、それに含まれるコネクトーム、コネクトミクス、機能的脳マップ、ビッグデータなどのトピックスについて紹介してみた。最終回の今回は、巨大な脳科学プロジェクトとしての問題点や課題を検討してみたい。

その前に、まず、全体を振り返ってみたい。以下がこれまで解説してきた項目である。議論を理解するために、今一度、各項目についての概念と現状を確認していただきたい。

各項目へのリンクはこちらのページから。
http://masahitoyamagata.blog.jp/archives/1970798.html

前半の「コネクトームへの挑戦」では、ニューロンのつながり方の総体としてのコネクトーム、そしてその研究法であるコネクトミクスのいくつかの例、更に、このような方法論が適用された単純なモデル動物、モデル材料について概観した。後半の「機能的脳マップへの挑戦」では、神経活動を可視化する方法、fMRIの活用を中心としたヒトコネクトームプロジェクトについて簡単に解説してみた。また、このようなプロジェクトで得られたデータをどのように扱うか、という問題について、主にビッグデータの観点から論考してみた。

米国のBRAIN Initiativeの場合、こうした「コネクトーム」「脳マップ」というゴールが中核になっている。ところが、2013年4月にオバマ大統領によって発表されて以来、反対論を含めた様々な議論が出ているのも事実である。ここでは、7つの観点から、議論をまとめてみたい(図1)。

(その1)目標は何なのか?
オバマ大統領のBRAIN Intiativeは、「アポロ計画」や「ヒトゲノム計画」と対比されるような大型の科学プロジェクトであると、標榜されている。では、過去におけるこれらの計画と何が違うのか?

ケネディー大統領が提唱した人類を月面に着陸させるという計画の目標は、単純明快だった。改めて説明する必要もない。ヒトゲノム計画は、ヒトゲノムを構成するA、T、G、Cという4つの塩基からなるDNAの配列を決めるということであった(図2)。DNAが2重らせん構造をしていて、その線状の配列はデジタル的な情報として記述でき、生命体が世代を超えて伝えていくゲノムという実体は明確だ。もちろん、ゲノム構造には、クロモソーム中のテロメア、配列決定が困難な反復配列、DNAメチル化のような4塩基以外のエピジェネティックな修飾もある。更に踏み込めば、本当に完全にDNA配列が決まるというゲノムという実体の存在は、現在においても仮説なのではなかろうか。ヒトゲノムは個人によって違うので、誰のDNA配列を決定するか、という議論もあったし、男女の違いというのは、決めるゲノムが1つではないということの大きな例である。しかし、それでも、ヒトゲノムの全DNA配列をひとつの目標として決定するというのは、ほとんどの科学者を十分に納得させる明確な目標ではあった。説得力のある目標があるというのは、極めて大切である。コネクトームや脳マップの場合は、どうだろうか?

コネクトームの場合、センチュウのように同じ遺伝形質を持った個体であれば、同じコネクトームを持つという場合は、目標を立案し、実行できる。センチュウのコネクトームは、基本的に、どんな個体でも同じ形をしていて、記述できる「ステレオタイプ」なものだ。ところが、ヒトやマウスといった脊椎動物の場合、同じ遺伝形質を持っていたとしても、そのコネクトームは基本部分に共通性はあるとしても、脳のサイズも違うし、ニューロンの数も異なる。細胞レベルまで見た場合、細胞の形態も違うし、結合の証となるシナプスの位置もすべてが同じ座標上で定義できるものではない。

もちろん、ヒトやマウスでもひとつの個体だけをとれば、コネクトームという物理的な実体は存在する。ところが、別の個体では違う。つまり、コネクトームというのは、細胞レベルの構造まで突き詰めてしまうと、曖昧なものであり、異なる個体同士で重なり合わないものである。したがって、ある1つの動物種のコネクトームといった場合、異なる個体間での共通性のみに焦点があたる。個体差は、ゲノムに見られるSNPsのような遺伝的多型のような形で捉えることができるかもしれないが、個体間でのコネクトームの差は情報量としてあまりに大きく、単純に扱えるようなレベルのものではない。果たして、その差に意味があるのかもさえもわからない。更に、コネクトーム記述の道具として使う電顕写真というのは、デジタル的なDNA配列と違って、アナログ的であるので、膨大な情報を持っている。そして、電顕写真の質を変えたり、解像度を上げれば、更に多くの情報が得られる可能性さえあるということで、塩基配列というデジタル情報の決定で完結するゲノム計画とは大きな違いがある。

機能的脳マップについては、空間的な構造として物理的に定義ができるコネクトームより更に曖昧だ。そもそも脳の機能というのが、いくつあるのか、それぞれを区別できるのか、など、不明瞭である。仮に脳の機能の数を決めて、ある目標を立てたとしても、目標が終わったら、それほど飛躍しない次の目標が出てくるというのは容易に想像できる。これは、人類が月面に立てば、それで目標達成というのとはかなり違う。つまり、脳マップ作製プロジェクトの場合、目標の実体さえ曖昧で、シーシュポスの神話のように新たな目標達成を繰り返すサイクルに入ってしまう、という危険性がある。

加えて、現時点では、コネクトームと脳マップを結びつける技術が存在しないために、いくつかの異なるプロジェクトが整合性なく混在しているというのも、BRAIN Initiativeの目標が混乱して曖昧になっている原因である。この目標の曖昧さの問題について、説得力を向上させる現実的なアプローチとしては、例えば、「がん研究」のように疾患の制圧というようなものを、強くアピールするようなことだろうか。ただ、こうするとまた違った問題意識を持ち込むことになるので、焦点がぼけてしまうだろう。


(その2) 研究戦略として科学的に正しいのか?

神経科学者の多くがしばしば指摘するのは、コネクトームがわかっても、神経系や脳がどう働くか、全然わからないのではないか、ということだ。つまり、研究戦略として、コネクトーム情報の取得に多くの時間、人材、研究費を費やすのが、果たして正しいのか、という議論がある。ここでは、神経系を理解する際の本質的な「部分と全体の問題」、「可塑性の問題」、「機能発現の規模の問題」、「結合の性質の問題」の4つの視点を紹介してみたい。

センチュウの302個のニューロンからなるコネクトームは1980年代には完全に解明されているが、センチュウの行動についての研究は、未解明な点が多く、現在でも盛んに行われている。つまり、コネクトームがわかっても、それは役立っていないのではないか。これは、例えば、パソコンの中にあるチップやドライブなどのつながり方をみても、パソコンがどう動くかわからないという問題と似ている。つまり、パーツだけを見ても全体はわからないという指摘である(部分と全体の問題)。この議論は、「ビッグデータ(2)脳科学データリソースの充実」でも議論したDavid Marrによる「認知プロセス3段階仮説」と共通している。ところが、それでも、やはりどんなパーツがあって、それらがどうつながっているか、という情報は、無いより、あった方がよいのは自明である。センチュウの研究者も、コネクトームの情報を利用して、行動を理解しようとしているのだ。

脊椎動物の脳の特徴は、その機能や神経回路が、遺伝子ですべてが決定されるのではなく、環境との相互作用で大きく変化するという点である(可塑性の問題)。発達、加齢、疾病、傷害などで変化するというのは、他の臓器でも同じであろうが、脳は環境との相互作用、つまり体験を通じての学習や記憶でも変化している。1時間前の脳は、1分前の脳そして現在の脳とは状態が違う。非常にダイナミックなものだ。こうした変化している対象について、ある時間1点でのコネクトームが解明されたところで脳の本質がわかるのか?もちろん、発達、加齢、疾病、傷害で変化するコネクトームは、発達、加齢、疾病、傷害を特徴づける脳内の神経回路の変化を見出すことができる可能性があるので、意義は大きいだろう。学習や記憶については、現代の神経科学はまだその本質を理解しているとは言い難いのではないか。コネクトームの情報は、そのための基礎情報になるだろう。

脊椎動物になると、ニューロン間のつながりというのは、ぼやけた部分というのがある。そして、個々の神経回路に多少の間違いや不具合があっても、多数の神経回路があれば全体としては機能するので、その目的を達成できる。その極端な例は、何らかの理由で、脳の一部が失われても、それなりに機能はするという柔軟性を脳が持っているということだ。このことから、個々のニューロン間の結合というのは、絶対的なものではなく、確率的なものに過ぎず、それでも全体としては機能するから、コネクトームは重要ではないのではないか、という指摘がある(機能発現の規模の問題)。しかしながら、それでも、ニューロン同士はそれなりに正確につながっているから、神経回路は機能するわけで、結合がファジーだからといって、機能するために必要なニューロン同士の正確な結合というのは存在していないわけではない。

ニューロンのつがなりである化学シナプスには、興奮性、抑制性、その他、機能を制御するための様々なつながり方の様式があって、電顕で形態だけを見ても、シナプスの性質まではわからない(結合の性質の問題)。例えば、興奮性シナプスでは神経伝達物質としてグルタミン酸、抑制性シナプスでは神経伝達物質GABAやグリシンが使われている。更に、アセチルコリンやセロトニンといった神経伝達物質を使うシナプスもあるし、シナプスの働きを変化させる神経ペプチドなども存在する。そして、記憶や学習などにおいては、シナプスの性質が、生化学的に、増強されたり、抑制されたりする。つまり、つながり方の形態を見るだけでは、こうした情報は不明なので、コネクトームだけでは結局多くのことはわからないという指摘がある。これは事実である。しかし、それでも、コネクトームの情報は、それを基礎情報として活用するには大切なものだ。

まとめると、コネクトームのような情報は、「色鉛筆」で塗り始める前の「白地図」のような基本情報となるということである。研究戦略におけるデータ収集という意味で反対する人はほとんどいない。しかし、一方で、目標の曖昧さ、科学的説得力の弱さから、研究戦略として、それだけに優先的に研究を集中させるのは反対だという意見が存在するのも事実である。機能的脳マップ作製では、次項で示すように、現行の方法論そのものに本質的な問題がある。

(その3)方法論はあるのか?
方法論な問題点については、これまでの解説でも、それぞれの項目で具体的に触れてきた。結論から言えば、ヒトゲノム計画におけるDNA配列決定で用いられたサンガーシーケンシングのような基幹となる決定的方法論がまだ存在していないということである。

それでも、連続切片の電顕を使った撮影によって構築される解剖学的なコネクトームは、方法論的には現実性、着実性がある。ただ、画像解析の数が多く、複雑過ぎるがゆえに、高スピードで正確に行えないというような問題がある。しかし、これは、計算速度やマシンラーニング、あるいは人間の目を用いるなどの対策で、時間をかければ、可能であるという段階になっている。もちろん、現状では、その「時間」が、我々が考える常識的な時間内でないので、以前として小さな場所での部分コネクトームの理解に努力しているという段階である。相補的な方法論として、古典的な神経回路研究法や、新しいコネクトミクスの開発が盛んに行われている。

一方、機能的脳マップ作成の道具として中心的に活躍しているfMRIは、神経活動を直接見ているものではないので、ニューロン、あるいは更に小さなシナプスレベルまでの解像度を達成することは不可能である。これは、大きな問題であり、解剖的なコネクトームの情報との融合を目指す上で、乗り越えなくてはいけない根本的な課題である。マウスなどの実験動物では、様々な遺伝子操作を利用した方法論、例えばカルシウムイオンや膜電位の変動を観察できる蛍光タンパク質遺伝子の導入などが利用できるが、汎用性を高めるために更なる改良が必要であろう。また、それを達成するためには、顕微鏡技術や解析法の開発も欠かせない。特に、望まれるのは、非侵襲でありながら、脳全体の中で生じる真の神経活動を個々のニューロンのレベルで、そのコネクトームと同時に観察できるような決定的な方法論の出現であろう。また、ミクロのコネクトームとマクロの脳マップの間のギャップをつなぐような革新的方法論の開発が望まれる。

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巨大プロジェクトの説得

大きな規模の予算を使って研究推進するとなると、とかく反対する人々がいるのは、世の常である。つまり、プロジェクトが、科学者コミュニティのみならず、政治的、経済的、そしてパブリックに理解、支持されるのか、という点が大変重要になる。次に、科学的観点とは別の側面から、BRAIN Initiativeの課題を考えてみたい。


(その4)科学者コミュニティを説得できるか

2012年4月、Columbia Universityにおいて、MIT(現、プリンストン大学)のSebastian Seung博士(参考:コネクトームへの挑戦 (6) アプローチ可能な脳:網膜の世界)とNew York Universityの神経科学者Anthony Movshonの2人を中心としたディベートが開催された。Seung-Movshonディベートと呼ばれるほど有名になったこの討論会は、立場の異なる神経科学者の間での代表的な論点が討論され、その模様は、YouTubeでも公開されている。https://www.youtube.com/watch?v=q4KrhDZQ088

Seung博士は、コネクトームで、脳が大変よくわかるようになるというような推進派である。一方、「反コネクトーム」の立場を取ったMovshon博士は、コネクトームを研究するということの必要性は認めながらも、それだけではすべてはわからないので、コネクトームに多くの研究費を振り分けるのはやめるべきだという立場だ。つまり、コネクトームのみに研究費を費やすことで、多様な研究分野に研究費が回らなくなって、多くの神経科学者の研究費が削減される危険性を指摘している。

このような状況が生まれる場合、プロジェクトの内部の研究者も外部の研究者も、Win-Winの心理状況になるような配慮が肝要である。そのためには、プロジェクト作製にあたっては、議論をオープンにして、外部研究者の意見も聴取する。更に、プロジェクト実行にあたっても、すべてに透明性を確保することが大切になってくる。その意味で、Seung-Movshonディベートのような賛否両論を公開して議論するような機会を設けることは重要であると思う。

ここで、改めて確認しておきたいのは、「コネクトーム」「脳マップ」という言葉には、ふんだんにキャンペーン的な要素が含まれているということだ。ヒトコネクトームプロジェクトでは、実際にやっていることは、コネクトームではないのに、コネクトームという単語を使用している。ここ最近は、研究申請や研究に「コネクトーム」と入れておけば、魅力的に見えるといった風潮があることには注意していかなければならない。

特に、大きな予算が動くプロジェクトは、時に予算獲得の「方便」であることもある。目標を標榜し、それを対外的に宣伝することで、巨大な研究費を動かす。ところが、実際は多数の小さなプロジェクトを養うのが目的というようなことが、研究者コミュニティで歓迎されるという現実的プロジェクトに陥る可能性もないではない。目標の曖昧さや、研究戦略の科学的な説得性の弱さ、決定的方法論の欠如は、研究内容がいろいろな方向に分散する余地を残しており、研究者のリアリズムとプロジェクトの夢ある理念が対峙するという懸念は存在する。


(その5)世の役に立つか?
コネクトームや脳マップの作製が、医療など社会にある問題の解決につながるのか?創薬や治療法の開発にどれほど役立つのか?新しい産業が生まれ、ビジネスになるのか?人々の雇用が増えるのか?経済波及効果はどれほどか?

コネクトームや脳マップ作製に集中的に研究費をつぎ込むより、うつ病、統合失調症、アルツハイマー病、パーキンソン病、自閉症などの社会的な負担の大きな問題の研究と治療法の開発に、直接全力を挙げた方がよいのではないか、という意見が、こうした疾患を研究している研究者を中心にあるのは現実だろう。しかし、コネクトームや脳マップの成果は、結果として、うつ病、統合失調症、認知症などの疾患や自閉症などの発達障害を、最終的に神経回路レベルで、より深く理解できる可能性があるという点で、決して、無駄ということにはならないと予想される。また、頻度の高い疾患を理解するのと同様な分析手法で、頻度の低い精神神経疾患の理解にも同時に活用できるだろう。つまり、このようなデータを活用することで、これらの疾患の神経回路レベルでの診断が可能になり、個々の症例を深く理解することで、個別医療や創薬に活用できるかもしれない。

また、これまでにない情報を使って、脳に関わる全く新規なビジネスが出現する可能もある。特に、教育分野、神経経済学と結びついた商業活動、法廷の場での利用などは、その萌芽的なアイデアが既に散見される。しかし、現時点で、「儲かるビジネス」が簡単に想定できるのなら、多くの人が今すぐにでも開始するに違いない、という意味で、更なる推測はここでは控えておきたい。


(その6)納税者は納得するか?
一般に脳科学は、科学の分野の中でも、科学コミュニケーションやアウトリーチの対象として理解を得やすいという特異な分野になっている。学校教育の現場だけでなく、多くの大人の関心の対象になりやすいようだ。それは、脳や心の不思議というのが、ほとんどの人の知的好奇心を呼ぶからであろう。また、社会的な負担が大きい様々な精神神経疾患の解決に向けてのパブリックの関心については、説明するまでもない。それは、書店や図書館において、多数の脳関係の本が並べられ、実際によく読まれていることからも明らかであろう。

このことは、脳科学について、ニセ科学の範疇に属する話題が社会に広がる危険性を持っているといえるだろう。特に、脳科学の統計学的な有意性に基づいた科学的議論は、しばしば完全で断定的な知見としてひとり歩きして社会に流布するなど、大きな問題が生じやすい。科学には、教科書に書いてある事項のように、比較的、安定した事実と認識されているものもあるが、脳科学の場合、研究の性格上、白黒付けることができない「グレー」な事項というのが多いのである。こういう脳科学の特徴も含めて、正しい脳科学や神経科学のパブリックへの啓蒙は、このような巨大なプロジェクト実施にあたっては積極的に行われるべきである。

大切なのは、脳についての基礎情報が飛躍的に増えれば、脳科学特有の曖昧さが、科学的な確固とした根拠に基づく、より真実に近い知見として、社会に提供できるようになる機会が増えてくることだ。特に、ニセ科学と科学を見分ける「検証可能性」という点から言えば、コネクトームや脳マップというようなビッグデータは、証拠に基づいた検証を可能にするデータとして将来的には活用できるかもしれない。


(その7)実施してもよいのか? 

ヒトES細胞を用いる研究は、米国においては、主に宗教的な理由から、保守的な共和党の議員や支持者を中心に、反対論がある。ところが、民主党のオバマ大統領の提唱した脳研究については、共和党議員の積極的支持者も多く、ヒトES細胞を使う再生医療、創薬研究に見られるような極端な反対論はないといってよい。また、米国においては、バイオ系の研究や教育ではしばしば顕在化してくる進化論的世界観(対、創造説あるいはインテリジャント・デザイン)についての議論も、脳科学の研究に関する限りはあまり関係ないようだ。逆に、宗教、瞑想などを、脳科学から理解しようとする研究には協力的な宗教関係者も多い。つまり、オバマ大統領のBRAIN Initiativeは、政治的な意味では、非常に順調なものであると言ってよい。

動物を使った実験については、通常の生物医学研究と同じ倫理的観点はあるだろう。しかし、神経科学の場合、サルのような高等動物を使う必要性もある。更に、行動観察においては、実験動物が覚醒した状態での研究も必要になることから、動物実験倫理的な観点からの議論は深刻である。この点で指摘しておきたいのは、中国との関係である。最近も、マカクサルにCRISPR-CAS9を用いたゲノム編集技術を適用したという研究が発表された(http://www.cell.com/abstract/S0092-8674%2814%2900079-8)。サルを用いたこのような技術の利用は、米国内から中国に移りつつあるようだ。MITを始めとして、米国の脳関係の先端研究機関が、中国の研究施設との関係を深める理由は、実はこういったところにもあるのかもしれない。

脳研究の倫理的観点は、むしろ、このような研究が推進され、実際の結果が出てきた時、想像以上に大きな問題になることが予測される。ヒトのデータの収集にあたっては、個人情報の扱いなど、ゲノム情報の収集と同様な生命倫理が問われる。また、知能などの知・情・意とコネクトームの問題、コネクトームの男女、人種差などの問題、法廷の場での証拠としての脳マップの利用、脳マップと対応させることで思考内容を推定する装置、新しいニューロン刺激法によるマインドコントロールなど、これまで想定されなかった倫理的な問題が噴出することは容易に予想できる。しかし、こういう倫理的問題が生じるからといって、研究を停止するという議論は現在のところはほとんどないようだ。

脳科学の未来:今が大きな転換期
今回議論したように、様々な課題や問題があるものの、コネクトームや脳マップは、脳科学研究推進の基礎情報となるものである。反対論があっても、これらの情報は、次世代の研究者への財産にはなるのではないか、という見方は大方のコンセンサスであろう。一方で、今を生きる研究者からは、こういうプロジェクトに多大な研究予算を使うのは、研究の多様性やリスク分散の観点から、積極的に支持できないという感情論がでているのも事実である。ただ、現実には、研究費が増えることが話題になる分野には、多くの研究者が関心を持ち始め、その分野に研究者が更に集中するという誘導効果があるのは世の常であろう。まさに、一種の「バブル」が生じ始めている段階である(そして、バブルははじける可能性もある)。

世界的に見た場合、米国のBRAIN Initiativeに対応するものとしては、ヨーロッパ共同体EUのHuman Brain Project(https://www.humanbrainproject.eu/)が規模の大きなものである(図3)。また、中国のBraintome (http://www.brainnetome.org/en/)を始めとする様々な研究機関の脳科学研究は、予算的に恵まれ、米国でトレーニングを受けた研究者を多数集め、今後の飛躍的な発展が期待される。韓国では、Center for Functional Connectomics (http://cfc.wci.re.kr/english/portal.php)などが設置され、脳科学の研究活動が盛んになりつつある。その他、イスラエル、オーストラリア、シンガポール、他のBRICs諸国など、米国での動きに刺激を受けた脳研究が世界各地で始まっている。ただ、このような巨大な計画の常として、関係国の経済や政治状況に影響を受けやすいのも現実だ。例えば、EUのHuman Brain Projectの中核プロジェクトの1つであるBlueBrain(参考:ビッグデータ(2)脳科学データリソースの充実)は、EUには加盟していないスイスを拠点としている。2014年2月初め、スイスで行われた移民規制に関する住民投票の結果について、EUが懸念を示していることから、EUのHorizon 2020 (http://ec.europa.eu/programmes/horizon2020/)の支援を受けるこのプロジェクト進行にも影響を与える可能性が生じている。

一方、日本でも脳科学についての同様な研究計画は策定されている。しかし、世界の脳研究のこのような流れを紹介した米国で目にする英文記事の中では、日本の対応プロジェクトについて記述されていることが極めて少ない。少なくとも、筆者は個人的にそのような体験をしばしばしており、ショックを受けることがある。日本にも多くの優れた確立された脳科学研究施設、大学があり、卓越した脳科学者、神経科学者や、将来を担う若手研究者がいる。ところが、脳科学の転換期にあるというグランドデザインの点で、欧米からみて埋没している状態になっているのではないか、危惧されるところである。

ここでは具体的には論じないが、日本の神経科学研究においても、日本の学術界、科学技術行政の問題としてしばしば指摘されているのと共通する問題があるようだ。特に、革新的な技術を開発するために必要な他の科学分野との協力関係や人類全体への貢献という国際協力、科学外交の視点を忘れてはならないと思う。日本国内でのヒトゲノム計画の担当研究など、過去の大型バイオ系プロジェクトについては、経過と貢献度の検証と分析が多くの識者によってなされ、多様な批判があったのは周知の事実である。脳、神経科学研究推進においても、そのような過去の大型プロジェクトにおける反省を踏まえての実施が望まれる。そして、脳科学研究が、「アポロ計画」や「ヒトゲノム計画」のように夢ある人類にとって特別なプロジェクトであることが、もっと国民、特にあらゆる分野の科学研究者に認識されなくてはいけない。

こんなエピソードを最後において、この寄稿の終わりとしたい。ちょうど5年前になる2009年、筆者は、日本の神経科学系の某学会で、コネクトームとコネクトミクスに関する公開討論を含めたシンポジウムを開催するように要請した。ところが、これからの脳科学の未来を考える上で、大きな転換点となる特別な意義があるものとは、学会関係者にはなかなか理解されなかった。その数年後、「コネクトーム」という言葉は、世界的に広く使われるようになったのである。脳科学、神経科学は、今、大きな転換期にある。

(次回のブログの更新は、11月上旬を予定しています。)

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